斉藤和巳の凄さがわかる名言集!天才投手の努力論や人生哲学に迫る!
2018/08/23
2006年パリーグのプレーオフ第二ステージ第2戦。好投しながらもサヨナラ負けしてマウンドに崩れ落ち、敵地に響く大歓声の中、チームメイトに抱えられて静かにマウンドから去る姿が、いまだに野球ファンの記憶に残っている斉藤和巳投手。
福岡ダイエーホークスから福岡ソフトバンクホークスのエースとして、怪我に泣かされながらも通算79勝をあげますが、通算現役11年で137回の先発をし、負け数はわずかに23。通算勝率.775は驚異的であり、日本プロ野球史上で15連勝以上を二度記録しているのは斉藤和巳ただひとりです。
自分が投げる時、チームは負けない。
今回は、そんな負けないエースとして活躍した斉藤和巳投手の名言から、天才投手の努力論や人生哲学に迫ります。
斉藤和巳について
まずは斉藤和巳の経歴を追ってみます。
1977年11月30日生まれ、京都府京都市出身。南京都高校(現京都廣学館高校)からドラフト1位で福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)に入団。
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肩の痛みに悩まされ、二年目に手術。その後もなかなか調子が上がりませんでしたが、2003年に覚醒し、先発登板16連勝を記録。シーズン20勝をあげて投手のタイトルを総なめにし、チームも日本一に導きます。
翌年は調子を落とすものの二年連続で二桁勝利をあげます。
2005年には開幕から15連勝をし、当時の日本記録に並び、シーズン16勝で負けはわずかにひとつ。
2006年は勝利数、防御率、勝率、奪三振、完封のすべてでリーグ1位となり、パリーグ投手として初となる2度目の沢村賞を獲得します。
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しかし、その2006年はプレーオフでは、シーズン首位の日本ハム相手に好投するも、9回裏に稲葉篤紀のセンターに抜けそうなゴロをセカンドが好捕し、セカンドカバーのショートにトスをするがセーフ。なんとその間にセカンドランナーだった森本稀哲がホームに生還。斉藤はサヨナラ負けでマウンドに崩れ落ちます。
翌2007年には肩の故障がひどくなり、シーズン後に手術をするも回復は思うようにならず、コーチ契約でリハビリを続けますが、結局は復帰ならずに引退。
実働11年で沢村賞2回、最多勝2回、最優秀防御率2回、最高勝率3回、最多奪三振1回、ベストナイン2回など、多くのタイトルを手にしましたが、その勝ち星のほとんどは2003年から2006年までのわずか4年間。その一瞬に大きく輝いた投手でした。
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「やっぱりエースは負けたら終わりだから」
通算251勝をあげた東尾修は、西武ライオンズ監督だった広岡達朗に負けが多いことを指摘されて、負けが多い投手はエースではないということを言われたそうです。名将野村克也もエースの条件として「負けない投手」というのをあげています。
投手の勝ち星はチームの強さと関係します。防御率5.00でもチームが常に6点取れるならば勝ち星は増えていきます。
しかし先発投手で負けないということは、水ものと言われる打線がどうあれ、常にチームが優位な状況になるまで踏ん張っているということです。
四回先発して、うち3回は勝つという驚異の勝率は、エースとしての自覚があればこそだったのでしょう。
故障が多く、「ガラスのエース」と揶揄されもしましたが、あのシーズン24連勝のアンタッチャブルレコードを作った田中将大でも、日本での7年間で35敗しています。たった23回しか負けがつかなかったことは、エースの名に恥じないものだと思います。
「あのときから僕の中では時が止まったままなんです」
あの時とは2006年日本ハムとのプレーオフでの敗戦です。
事実上、その翌年が現役最後の年であり、斎藤はマウンドに立つことすらできなくなります。
その試合から「時が止まったまま」なのは、リベンジを果たすには同じ舞台でないと意味がないからなのでしょう。
そしてあれだけの勝率を誇るエースが、なぜかプレーオフでも日本シリーズでも、まったく勝てなかったことが、引っかかっていたのかもしれません。
特に問題の2006年のプレーオフでは二試合に登板し、共に1-0で完投敗戦しています。16回2/3投げて、わずか2失点での2敗は、投手のせいではなく打線の責任だと思いますが、負けないエースとしては不本意だったのでしょう。
マウンドに崩れたエースのもとに真っ先に駆けつけたのは、助っ人のズレータとカブレラでしたが、斉藤はシーズン前、彼らに「あなたたちの力が必要だから、力を貸してくれ」と直に伝えたそうです。チームのためにという斉藤の気持ちが、助っ人にも伝わっていたということなのでしょう。
またダルビッシュ有がメジャー移籍する際、日本ハムからの退団会見で、一番印象に残る試合として、自身が投げていないこの試合をあげています。日本ハムの勝利についても嬉しかったのでしょうが、エースとして斎藤のピッチングから得たものもあるのだろうと思います。
「悲劇のヒーローなんて、もうこりごりですよ。そのときだけはカッコいいけど、そんなもんじゃないですから」
そう言って、この時の悲劇扱いを嫌い、復活に向けてリハビリを続けた斉藤ですが、その想いは叶いませんでした。
「自分の中で可能性がゼロになったら終わり、1%でもあったら、それにかける」
2008年から2012年までの長きにわたり、地道にリハビリを続けて、復活を目指した斉藤ですが、まさに1%の可能性にかけていたのでしょう。
高校時代からいわゆるルーズショルダーであり、肩関節が緩い一方、その柔らかさが武器でもあったともいう、まさに諸刃の剣だった肩。3度目の手術の後は、3ヶ月たっても肩まで腕を上げるのがやっとで、まともに顔も洗えず、24時間痛みがあり、肩を下ろしていてもずっと重さを感じていたそうです。
リハビリもボールを持つまでは比較的計画通りに行くものの、いざボールを持つと途端に厳しくなるとのことで、一歩ずつ進んでいても、最初に逆戻りすることが何度もあるのだとか。そんな経験から、同じように故障した選手に「リハビリに絶対はないよ」とアドバイスするなど、リハビリコーチとしての役割もしっかり果たしていました。
引退を決めて、かつてバッテリーを組んでいた城島健司に連絡をすると、城島は「最後に一球投げろ」と言い、引退セレモニーではその城島が最後の一球を受けました。
およそ6年間登板がないままの引退でバッシングも受けましたが、松坂大輔や荒木大輔など、長いリハビリから復活した選手もいますし、吉見一起や佐藤由規のようにもがき続けている選手もいます。
斉藤のリハビリ経験は必ず他の選手の役にたつことでしょう。
名言からの学び
・勝つことよりも、負けないことを目指すことで、結果的にチームが勝つ平均値を高めることができる。
・不本意な結果で、悲劇のヒーローに甘んじてはいけない。
・自分に必要ならば、必死にわずか1%の可能性にかけてみる。結果がうまくいかなくても、必ず何かが残る。
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