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【ヤクルト】歴代監督を成績と一緒に徹底解説!優勝回数最多は野村克也監督!

2019/10/26

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ヤクルトスワローズと言えば野村克也監督の印象が強い方も多いのではないかと思います。その野村監督に育てられた古田敦也さんが選手兼監督のプレイングマネージャーとなったことも話題になりましたね!!「代打オレ」というのも印象的でした。

近年では2015年に前評判は決して高くない中でリーグ優勝をしています。若手選手の急成長があった年でした。その中でもトリプルスリー男の山田哲人選手が大ブレイクした年です。それ以降球界を代表する野手として注目を集めています。

ヤクルトの全盛期と言えば1990年代です。今までリーグ優勝は7回ですが、そのうちの4回は全て1990年代の優勝でした。そして当時の監督が先に記載した野村監督でした。捕手出身の独特な「考える野球」を選手にたたきこみました。

今回はヤクルトスワローズの歴代監督とその成績についてまとめました!!

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ヤクルトの歴代監督について

初代から順に記載します。出身チームについてはプロチームのみの記載です。

西垣徳雄監督(1950年~1953年)

生年月日:1910年1月22日
ポジション:投手
最高順位:5位

1929年の春の第6回選抜中等学校野球大会にて優勝投手となりました。その後は法政大学卒業後に東京鉄道局の監督を経て、プロ野球の審判をした後に初代ヤクルト国鉄スワローズの監督になりました。東京鉄道局の監督だったということで国鉄球団の監督に就任したのだと思われます。

藤田宗一監督(1954年~1955年)

生年月日:1914年8月20日
ポジション:外野手
出身チーム:国鉄スワローズ
最高順位: 5位

コロムビアという社会人チームで長い間プレーしていましたが、新球団ができて戦力不足に悩んでいた国鉄スワローズから強力な勧誘を受けてシーズン途中で入団しました。35歳という年齢でプロ入りしましたが、主に3番打者として活躍していました。社会人時代も選手兼任監督として采配をしていたこともあり、引退後指揮を執りましたが、2年間で成果がです退任となりました。

宇野光雄監督(1956年~1960年)

生年月日:1917年4月10日
ポジション:内野手
出身チーム:読売ジャイアンツ・国鉄スワローズ
最高順位: 4位

かつてはジャイアンツでプレーし青田昇、川上哲治と共にクリーンアップも任された好打者です。国鉄の1950年代は金田正一投手の最盛期でしたが、監督就任から4年連続で4位で1960年は最下位の6位となりました。最後の年の最下位になったことで5年間指揮を執りましたが、退任しました。

砂押邦信監督(1961年~1962年)

生年月日:1922年9月25日
ポジション:投手
最高順位: 3位

立教大学時代の監督時にはMLB流の指導方法で、読売ジャイアンツの終身名誉監督の長嶋茂雄を育てあげたことでも有名です。2年間指揮を執りました。1961年の初年度はヤクルトを初のAクラスで初の勝率5割越えの.528の勝率を残しました。

浜崎真二監督(1963年)

生年月日:1901年12月10日
ポジション:投手
出身チーム:阪急ブレーブス
最高順位:4位

浜崎真二監督は左投げの投手でした。正式な身長のなどは明記されてはいませんが、150cm、160cmの説がある選手です。このことから日本プロ野球史上最も背の低い選手とされることがあります。また浜崎監督は日本プロ野球選手史上入団最年長記録を持っており、45歳で選手兼総監督として阪急ブレーブスに入団しました。

林義一監督(1964年~1965年)

生年月日:1922年9月25日
ポジション:投手
出身チーム:大映スターズ・阪急ブレーブス
最高順位:5位

林義一は徳島が地元で徳島商行時代は四国の「ビッグ3」と呼ばれていた投手でした。変化球の中でもカーブが得意で「ブーメランのように投げた方に戻っていく」と言われていました。1952年4月27日にはパシフィックリーグ初のノーヒットノーランも達成しました。2年間監督を務めましたが、成績が振るわず2年で退任しました。2年目の1965年シーズンは開幕からチーム内に問題がでて4月27日に退任し、砂押邦信が指揮を執りましたが、結果を残すことができませんでした。

飯田徳治監督(1966年~1967年)

生年月日:1924年4月6日
ポジション:内野手・外野手
出身チーム:グレートリング・国鉄スワローズ
最高順位:5位

温厚な人柄で選手、ファンからも愛されていた飯田徳治監督です。その温厚な性格から「仏の徳さん」とも呼ばれていました。ですがこの当時のヤクルトの戦力不足は否めず2年連続で5位と結果を残すことができませんでした。

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別所毅彦監督(1968年~1970年)

生年月日:1922年10月1日
ポジション:投手
出身チーム:グレートリング・読売ジャイアンツ
最高順位:4位

選手時代は多くの素晴らしい成績を残しました。2度の沢村賞と、2度の日本シリーズMVPにも輝いています。1947年にはプロ野球記録となるシーズン47完投と大記録を達成しました。本当に今の時代からは先発投手が47完投なんて信じられないですよね(^^)/

本当にこの記録からも昔の野球選手は時代もありますが、タフだということが実感しました・・・(^^)/

3年間指揮しましたが、自分のイメージ通り、動いてくれない選手に対して厳しい面もあったようです。自分自身が大記録を達成している選手だけに歯がゆさもあったのだと思います。3年間指揮しましたが、1年目が4位でその後は5位、6位と一度もAクラスになることはできませんでした。ちなみに最終年の1970年もシーズン途中で小川善治に監督を変わっています。

三原脩監督(1971年~1973年)

生年月日:1911年11月21日
ポジション:内野手
出身チーム:大日本東京野球倶楽部
最高順位:4位

三原監督は名将としてヤクルトの監督の前に5球団の監督をやりました。大洋球団を優勝に導くなど定評があり期待されていましたが、3年間ヤクルトの監督をやり1度もAクラスになることもできませんでした。ですが、若松勉を入団一年目からレギュラーに抜擢し後の大打者として、はばたくきっかけをつくりました。

荒川博監督(1974年~1976年)

生年月日:1930年8月6日
ポジション:外野手
出身チーム:毎日オリオンズ
最高順位:3位

選手を引退後指導者としてジャイアンツの川上哲治監督のもと1962年から1970年まで1軍打撃コーチを務めました。あの世界のホームラン王「王貞治」を育てことも有名です。コーチ時代は荒川道場と呼ばれる厳しい指導法を行なっていました。厳しい監督ですが、好打者を育てる指導法が魅力でした。ヤクルトの監督として1年目は13年ぶりのAクラスに導きましたが、2年目には4位、3年目の最後の年は開幕から不調で5月に退任し広岡達朗に監督が代わりました。

広岡達朗監督(1976年~1979年)

生年月日:1932年2月9日
ポジション:内野手
出身チーム:読売ジャイアンツ
最高順位:1位

現役時代は読売ジャイアンツで活躍していました。阪神の吉田義男とはセリーグを代表する遊撃手として競い合っていました。現役時代から大先輩である川上哲治にもしばしばぶつかっていたようで、先輩後輩関係なく野球のことに対しては意見を言うような選手でした。ヤクルトの監督としては甘い環境を一新させ、野球に集中する環境をつくり1978年にリーグ優勝、日本一に輝きました。

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武上四郎監督(1980年~1984年)

生年月日:1941年4月8日
ポジション:内野手
出身チーム:サンケイアトムズ
最高順位:2位

ヤクルト一筋の選手でした。引退後も打撃コーチ、守備コーチを経て監督になりました。待望のチーム生え抜きの監督が誕生しました。1年目の1980年こそ2位でシーズンを終えましたが、1983年は最下位となり、1984年は開幕からチームが絶不調で4月26日に退任して、その年は中西太、土橋正幸と1シーズンで3人の監督が指揮を執りました。

土橋正幸監督(1984年~1986年)

生年月日:1935年12月5日
ポジション:投手
出身チーム:東映フライヤーズ
最高順位:5位

1シーズンで3人の監督が代わった1984年の5位が最高成績でした。この年は5月末から中西太監督から指揮を執りはじめましたが、何とか3年連続の最下位を免れました。土橋監督時代はヤクルトが初優勝した1978年から6,7年ほど経っており優勝時に活躍していた選手たちがベテランの域に入っていたため戦力が落ちはじめていた苦しい時期でした。ですが、若手を積極的に起用し、次の時代のヤクルトをつくった土台の監督とも言われています。

関根潤三監督(1987年~1989年)

生年月日:1927年3月15日
ポジション:投手・外野手
出身チーム:近鉄パールス・読売ジャイアンツ
最高順位:4位

選手時代は2刀流として活躍し1000本安打、50勝を記録し、オールスターゲームでは投手・野手の両方でファン投票選出を記録しました。ヤクルトの監督は3年間でしたが、前任の土橋監督が育てはじめた若手選手をさらに広げた監督です。土橋監督と共に、後のヤクルトの黄金期を支えた監督であったと言えます。

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野村克也監督(1990年~1998年)

生年月日:1935年6月29日
ポジション:捕手
出身チーム:南海ホークス・ロッテオリオンズ・西武ライオンズ
最高順位:1位

球界を代表する野村監督です。野村監督はID野球という「考える野球」で強いヤクルト時代を築きました。選手としても初の捕手として三冠王獲得や出場試合数歴代2位、監督としての出場試合数3位、通算本塁打数歴代2位、通算打点数歴代2位、通算犠飛歴代1位など多くの記録も持っています。

野村監督はヤクルトで9年間指揮を執り、4回のリーグ優勝、3回の日本一に導きました。3年に1回は日本一ですから本当に素晴らしい監督でした。眼鏡をかけた捕手の古田敦也を育てたことでも有名で、良い捕手がいるチームは強いというのを印象に残した監督でした。

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若松勉監督(1999年~2005年)

生年月日:1947年4月17日
ポジション:外野手
出身チーム:ヤクルト
最高順位:1位

現役時代はヤクルト一筋で小柄な選手ながら華麗な打撃技術で多くの安打を放ちました。「小さな大打者」とも言われ打率3割以上が12回は川上哲治と並んで歴代3位となっています。

野村監督の後を引き継ぐということでプレッシャーもあったと思いますが、監督時代の成績は4位が最低の成績で、2001年から2004年(1位・2位・3位・2位)まではヤクルト初の4年連続Aクラスの成績を残しました。2001年には日本一にも輝いています。ヤクルトとして5回目の日本一となった年の監督です。

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古田敦也監督(2006年~2007年)

生年月日:1965年8月6日
ポジション:捕手
出身チーム:ヤクルト
最高順位:3位

ヤクルト一筋の生え抜き選手です。野村監督に育てられID野球を継承している監督でした。昔は多くいましたが29年ぶりの選手兼監督の立場で指揮を執りました。「代打オレ」というのも話題になりましたね(^^)/

古田監督は好打者としても活躍していたので、たまにそのようなシーンがありました。2年間の采配でしたが1年目が3位、2年目は最下位と結果が残せず退任することになりました。まだまだ若いので今後もヤクルトや他球団でも監督として指揮をとってもらいたい1人です。

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髙田繁監督(2008年~2010年)

生年月日:1945年7月24日
ポジション:内野手・外野手
出身チーム:読売ジャイアンツ
最高順位:3位

1967年にドラフト1位でジャインツへ入団しました。1年目からレフトでレギュラーに定着。ジャイアンツのV9時代を支えた選手の1人です。

2008年には足を絡めた野球で、チーム盗塁数が12球団最多の148を記録し3位に入りました。青木宣親選手、飯原誉士選手、川島慶三選手などが積極的に盗塁していました。

1年目は5位でしたが、2年目は3位Aクラスとなりました。2010年はチームが不調で5月頃には退任の報道もされ、その後へッドコーチの小川淳司がシーズン終了まで監督代行を務めました。

小川淳司監督(2011年~2014年)

生年月日:1957年8月30日
ポジション:外野手
出身チーム:ヤクルト・日本ハム
最高順位:2位

2010年はシーズン途中監督代行として指揮を執り、なんとか4位まで巻き返すことができました。2011年、2012年はAクラスで監督として良いスタートを切りました。

2011年の初の監督として指揮を執った1年ではクライマックスシリーズでルーキーの山田哲人選手を1番に起用、青木宣親選手を4番で起用するなど思い切りのよい采配をみせました。2013年からの2年間は最下位に沈み監督を退任することになりました。

真中満監督(2015年~2017年)

生年月日:1971年1月6日
ポジション:外野手
出身チーム:ヤクルト
最高順位:1位

真中監督はヤクルト一筋で1992年のドラフト3位で入団しました。野村監督の強いヤクルト時代でしたので、すぐにレギュラーというわけにはいきませんでしたが、小柄ながらも俊足を武器に外野手として徐々に試合にもではじめました。

監督の1年目は決して前評判は高くなかったですが、リーグ優勝し、クライマックスシリーズも勝ち上がり日本シリーズにも出場しました。ソフトバンクに敗れはしたものの、1年目から監督として素晴らしい成績を残しました。2016年は5位に終わり悔しいシーズンとなり、3年目の真中監督は勝負の年でしたが、思うような結果が残せず最下位に終わりシーズン途中に辞任を発表する形に終わってしまいました。

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小川淳司監督(2018年~2019年)

真中監督の辞任を受けて、再登板となり2次政権になります。2018年はリーグ2位となり、立て直しに成功します。

しかし2019年はリーグワーストタイとなる16連敗を喫してしまう等、最下位に低迷。2次政権は2年で辞任という形になりました。

 

高津臣吾監督(2020年~)

生年月日:1968年11月25日
ポジション:投手
出身チーム:ヤクルト

小川監督の辞任を受けて、ヤクルト黄金時代を築いた名クローザーにヤクルト監督の白羽の矢がたちました。

酸いも甘いも経験してきた高津氏への期待は高まるばかりです。ヤクルトに新しい風を吹かせることだ出来るのか、大変注目ですし期待したいですね!

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優勝回数が最も多いのは野村克也監督!

ヤクルトは球団ができてから長い間Bクラスが続き苦しい戦いをしいられていました。1978年に広岡監督で優勝したもののその後も間が空いて、ようやく1990年から指揮を執った野村監督がヤクルトの黄金期をつくりました。

9年間で4回のリーグ優勝、日本一が3回ですから本当に素晴らしい成績です。野村監督の野球はヤクルトのみならず野球界に多大な影響を与えたと言っても良いと思います。考える野球、確率、勝つためにどのような策をとるべきなのかなど、その後の野球界での指導者、選手にも刺激に繋がったことも多くあると思います。

今でもテレビやラジオなどで野村監督がでると聞き入ってしまうのはやはりカリスマ的な存在だなという雰囲気を感じさててくれるからこそではないでしょうか!?

今後は野村監督の後継者(?)である古田敦也さんやその盟友である高津臣吾さんがヤクルト2度目の黄金期をつくってくれるかもしれませんね・・・(^^)/

 

まとめ

・ヤクルトの初優勝は1978年の広岡監督。野球に対しては厳しく、ヤクルトのチームの雰囲気を本気にさせ初優勝を成し遂げた監督です!!

・ヤクルトの黄金期は1990年代の野村監督時代。ID野球を駆使し9年で4度のリーグ優勝。3度の日本一の球界を代表する名将の1人!!

・2度目の黄金期は古田監督第2次監督の時か!?野村ID野球を肌に感じ身に染みている古田敦也さんの今後の動向にも期待!!

 

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