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渡辺久信監督の凄さが分かる名言・語録集!ノーヒッター天才投手の伝説エピソードから指導方法まで


1986年の新語流行語大賞に「新人類」という言葉がありました。1960年代生まれの若者たちに対し、「今時の若い者は」という皮肉や批判をこめてつけられた世代観ですが、アニメやゲーム、オフ会、ガンダムといった今につながるサブカルチャーを広めた世代でもあります。プロ野球界でも、それまでの武骨であか抜けないファッションから一転して、おしゃれな私服を着るようになり「トレンディーエース」と呼ばれていたひとりが渡辺久信です。

西武ライオンズ(埼玉西武ライオンズ)の黄金期には、渡辺をはじめ工藤公康や清原和博など、「新人類」世代が多く活躍しており、また他のチームでも西崎幸広や阿波野秀幸など、パリーグを中心におしゃれさと実力を兼ね備えた選手が増えていた時期です。

もちろん実力の面でも、ひとつの時代を作った選手たちであり、中でも渡辺の150キロを越える剛速球で打者をねじ伏せる投球は魅力的でした。台湾プロ野球でも活躍し、引退後はライオンズの監督からGMにも就任し、チームを支える存在です。

今回はノーヒッター天才投手であり、トレンディーエースと呼ばれた渡辺久信の凄さが分かる名言や語録を紐解き、伝説エピソードから指導方法にまで迫ります。

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渡辺久信について

まずは渡辺久信の経歴を追ってみます。

1965年8月2日生まれ、群馬県桐生市出身。中学時代から快速球に注目が集まり、前橋工業高校では1年時に夏の選手権大会で甲子園に出場。1983年のドラフトでは、外れ1位指名で西武ライオンズに入団します。

1年目から1軍で登板し、3年目となる1986年には16勝をあげて最多勝を獲得します。1990年には9回までノーヒットに抑えながらも延長となり、11回にヒットを打たれて、惜しくもノーヒットノーランを逃しますが、シーズン自己最多の18勝を記録します。

荒れ球で力任せの勝負が多いため、四死球や被本塁打が多かったものの、左のエース工藤公康と共に右のエースとしてライオンズを常勝チームに推し上げました。渡辺が在籍中、ライオンズは10回のリーグ優勝と、6回の日本一を果たしています。

1996年6月11日にはオリックスブルーウェーブ(現オリックスバファローズ)を相手に、ノーヒットノーランを達成。1997年オフに戦力外となりますが、ヤクルトスワローズに移籍、翌年オフに再び戦力外となります。

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1999年に東尾修の勧めで台湾プロ野球でコーチに就任しますが、かつての同僚でオリエントエクスプレスと言われた郭泰源のアドバイスもあり、実際にやって見せるという目的で現役復帰。エースとして活躍し、2001年に引退します。

日本プロ野球通算15年間で125勝27セーブ、防御率3.67。最多勝3回、最多奪三振1回、最高勝率1回。台湾プロ野球通算3年間で35勝4セーブ、防御率2.62。

引退後は2004年にライオンズの二軍コーチとして復帰。その後二軍監督を経て、2008年に一軍監督に就任。6年間指揮し、日本一1回。通算438勝、Aクラス5回という成績を残します。2017年にシニアディレクター、2019年からはGMとしてライオンズを支えています。

 

私が選ぶ、渡辺久信の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「指導者としての原点は台湾での3年間にある」

自著の冒頭にある言葉です。

台湾へはコーチとして渡りますが、言葉が伝わらないことから、プレイングコーチとして実戦でやってみせながら「上からではなく、選手の目線に立って指導することの大切さ」に気が付いたのだそうです。そして言葉も覚え、コミュニケーションを重ねることで、選手個々の問題点を探り、成長を引き出せるようになったといいます。

 

「言葉は通じなくとも接し方ひとつで必ず気持ちは通じる」

日本人選手としては珍しく、メジャーリーグのように「挑戦」ではなく、日本にくる外国人選手のように「助っ人」として期待された経験は、監督時代に生かされ、助っ人外国人のモチベーションを高めるのが上手かったようです。

大久保博元が選手とのトラブルでコーチを解任された際には、「理由のいかんを問わず、部下を守ってやれなかったのは自分の責任だ」と語りましたが、それは男気というよりも、渡辺流の気遣いという面が大きかったように思います。

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【名言語録その2】

「同じ目線に立てば、ミスをしても寛容になれるし、選手はのびのびとやることで育っていく」

渡辺著書に「寛容力」という本があり、サブタイトルには「怒らないから選手は伸びる」とあります。

ライオンズでは広岡達朗、森祇晶らの名将の下で働き、戦力外通告を受けた後、複数球団から誘いがあったものの、「野村ID野球を学んでみたい」とスワローズを選択。そして台湾でのコーチを経て、監督としての渡辺は、かつて学んだ名将たちとは違う独自の路線を歩むことになりました。

渡辺は選手時代には試合後にマッサージを受けなくても平気な良質の筋肉を持っていたと、同僚の工藤公康が語る通り、天才的な才能を持っていた渡辺ですが、速球派へのこだわりから年齢を重ねても投球スタイルを変えられませんでした。

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しかし涌井秀章が入団してきた時、二軍監督だった渡辺は涌井に対し「プロで生きていくためには投球スタイルを変えなければいけない」と諭しました。それは自身が出来なかった経験から学んだところだろうと思います。そして涌井には常に「お前がエース」だと言い聞かせて、本当のエースに育て上げました。

新人類と揶揄されてきた世代の渡辺は、昔からの気持ちを大事にする方法と、現代風の褒めて伸ばす方法を組み合わせ、選手を育てたといえます。

 

【名言語録その3】

「言葉にして気持ちで相手に伝えるか、理詰めで相手に伝えるのか、どちらかを選択しないといけない」

かつて渡辺が現役だった頃のライオンズは、若手は最低5年間は寮に入らなければいけなかったそうです。しかし渡辺は4年目に寮を出ました。当時、管理部長だった根本陸夫は、球界寝業師の異名をとる、一筋縄ではいかない相手です。

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それで渡辺は「根本さんのような人は正攻法でいったら落ちない」と考え、いきなりマンションを買い、又貸し出来ない物件なので寮を出たいと申し出たそうです。根本は「お前、考えやがったな」と呆れつつも、退寮を許してくれたました。

もちろん基本的には最多勝を獲得するなど、渡辺がすでに一軍で活躍していたからでしょうが、根本流の人心掌握術でもあったのだと思います。渡辺はその根本がかつて背負っていた管理部長の職を継ぎ、そしてGMに就任しています。意識しているかどうかはわかりませんが、ライオンズとホークスの土台を作り上げた根本の手腕を目の当たりにしているのは大きな財産だと思います。

選手の気持ちを汲み過ぎるのは、選手側ではなく経営側の一員であるGMにとって褒められたことではないのかもしれません。しかしメジャーリーグ流にビジネスライクな関係もひとつの方法ではありますが、日本ではまだGMとしての成功例は、事実上のGMだった根本の例しかありません。

監督として選手目線を大事にした渡辺が、GMとしてどのようなチーム作りを見せてくれるのか楽しみです。

 

 

名言からの学び

・積極的なコミュニケーションが関係性を強める。

・目線をそろえることで、伝わることもある。

・良い組織作りの方法はひとつではない。

 

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