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津田恒実の凄さが分かる名言・語録集!炎のストッパーの伝説エピソードから人生哲学まで


日本プロ野球で球速表示がされるようになったのは1979年から80年頃のことです。2018年シーズン終了時点で、日本最速は大谷翔平の165キロですが、打者に聞くと、体感速度と球速表示には差があるようです。セパ両リーグで本塁打王を獲得した山崎武司は、もっとも速く感じた投手として、津田恒実(1985年までは恒美)の名前をあげています。

真っ向勝負でどんどん豪速球を投げ込んでくる姿から「炎のストッパー」と呼ばれ、153キロを記録した真っ直ぐは、球速以上に威力があり、中継するアナウンサーが思わず「スピード違反」と漏らしたという逸話も残されています。

体調不良による突然の引退後、脳腫瘍のためわずか32歳で逝去しましたが、亡くなった当日のオールスター戦で球場アナウンスされた時の大きなどよめきは、在籍した広島カープのファンだけでなく、多くの野球ファンにとって忘れられない投手だった証明でしょう。

今回は早逝した炎のストッパー津田恒実の凄さが分かる名言や語録を紐解き、伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。

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津田恒実のプロフィール詳細

まずは津田恒実の経歴を追ってみます。

1960年8月1日生まれ、山口県都濃郡(現周防市)出身。南陽工業高校で1年生からエースとして活躍し、選抜高等学校野球大会にも出場。卒業後は協和醗酵(現協和発酵)に入社。補強選手として都市対抗に出場し、注目されます。

1981年のドラフトで広島東洋カープに1位指名で入団。1982年、先発投手として11勝をあげ、見事新人王に輝きます。しかし翌年には血行障害などに悩み、手術に踏み切ります。1986年から抑え投手に転向。カムバック賞を獲得する活躍でチームをリーグ優勝に導きます。

1988年には再び不調に陥りますが、不屈の精神でまたも復活し、1989年には最優秀救援投手となり、「炎のストッパー」と称賛されます

1990年から体調不良を訴えるようになり、翌91年の4月14日の登板を最後に入院。摘出不能な脳腫瘍が発見され、11月に引退を決めます。その後も必死の闘病を続けますが、1993年7月20日、わずか32歳でその生涯を閉じました。

プロ通算10年、49勝、90セーブ、防御率3.31。新人王、最高勝率1回、最優秀救援投手1回、カムバック賞などの成績を残しました。

津田の功績を讃え、野球殿堂入りを果たし、出身地の周防市の球場には「津田恒実メモリアルスタジアム」との名称がつけられています。

 

私が選ぶ、津田恒実の凄さがわかる名言・語録

【名言・語録その1】

「弱気は最大の敵」

津田の座右の銘として有名な言葉で、東北楽天ゴールデンイーグルスのエース則本昂大も、この言葉をグラブに刺繡しています。

その豪快な投げっぷりからは想像できませんが、実をいうと津田は非常にメンタルが弱く、高校時代には監督から精神安定の薬だと言われたのを信じて、メリケン粉を服用していたそうです。

精神論は古いと言われそうですが、投手経験者ならば気持ちが入り、しっかりと腕を振った速球ならば、少々甘いコースに行っても、そう打たれることはないと実感している筈です。何気なく投げたり、力を抜いてストライクを取りに行ったりすると、それなりにいいコースでも痛打をくらうイメージの方が強いのではないでしょうか。

プロ野球選手の多くは、対戦内容について細かく球種まで覚えています。それは一流の選手は繊細さも兼ね備えているということでしょう。したがってナーバスになるのはある意味で仕方がありません。問題はそれでも弱気にならないことです。

カムバック賞をとった1986年、記念のパネルを作ろうという話になった時、津田は「ホームランを打たれて『ウソ』といいながら、口を開けて振り返っているのにしてくれや」といったそうです。その理由を「その写真を見て、気合を入れ直すんじゃ。打たれたことを忘れちゃいかん」と説明しました。

自らの弱気を何とかはねつけようとする津田の思いが感じられます。

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【名言・語録その2】

「もう野球をやる自信がなくなった」

1991年4月14日の読売ジャイアンツ戦の登板が、津田の最期のマウンドになりました。1対0で勝っている8回に登板し、死球にヒットを2本を打たれて2失点。1アウトも取れずにマウンドを降ります。その後、津田はコーチ室を訪ね、当時の池谷公二郎コーチに泣きながら上記の言葉をつぶやいたそうです。

病院に行ったのはその翌日だったようで、見舞いに行くと悔しいと言って泣く津田の姿は見ていられなかったと池谷は語っています。

1986年には原辰徳が津田の速球を捉えられず腕の骨を折り、三冠王バースに三球三振をくらわせて「津田のストレートはクレイジーだ」と言わせた姿は、そこにはありませんでした。

手術不能な悪性の脳腫瘍だと本人には告知されていたようですが、公には水頭症と発表されていました。そして見舞いにきた北別府学らに「広島では現役として復帰させてもらえないだろうから、ダイエーの入団テストでも受けて、もう一度マウンドに立とうかな」と笑顔で話していたそうです。

津田の現役生活は順風満帆とはいえず、故障と復活劇を繰り返しました。その不屈ぶりからして「自信がなくなった」と一度は心が折れても、津田は諦めずに本気で復帰を望んで、闘病していたのではないかと思います。

津田が野球殿堂入りしたのは、短く鮮やかな活躍の記憶だけなく、何度でも戦い続けた姿がそれにふさわしいと評価されたのではないかと感じます。

【名言・語録その3】

「直球勝負 笑顔と闘志を忘れないために」

これは津田自身の言葉ではありませんが、かつては広島市民球場の一塁側ブルペンの柱に、現球場ではベンチとブルペンとをつなぐ壁に掲げられた「津田プレート」に刻み込まれた言葉です。

カープの選手は試合に出場する前にこのプレートに触れていく、という話があります。

津田の親友で当時福岡ダイエー・ホークスに所属していた森脇浩司は、闘病中の津田に「俺の年俸を半額にしてでも、お前を現場復帰させられるように球団(ホークス)に掛け合ってやる」とまで言っていたそうです。

 

「僕の知らない父が、いまもファンの心の中に生きている」

津田の残された息子は、津田のファンが今もまだ墓参りしてくれることに、そう感想を述べ、クラウドファンディングによって、2019年に「津田恒美記念館」が開館しました。

津田が亡くなってすでに26年たっており、それでも寄付が集まった辺りに、いかに津田が愛されていたのかがわかります

 

名言からの学び

・気持ち次第で変えられるものも間違いなく存在する。

・心が折れても、再び挑む心が人を動かす。

・記憶もまた大事な記録である。

 

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