鈴木啓示監督の凄さが分かる名言・語録集!球界レジェンドの伝説エピソードから人生哲学まで
平成も終わって令和となり、昭和は更に遠くなったように感じます。長きにわたった昭和の時代ですが、高度経済成長期にはプロ野球も読売ジャイアンツを中心に人気となりますが、パリーグは不人気で不遇の時代が続きました。そんな時代のパリーグを支えたひとりが鈴木啓示です。
プロ野球史上歴代4位となる317勝をあげ、同じく歴代4位の3061奪三振を記録。その他、数々のパリーグ記録を成し遂げたレジェンドである鈴木。日本広告機構のコマーシャルにも抜擢され「投げたらあかん」というセリフは流行語にもなり、座右の銘である「草魂」と共に、プロ野球ファン以外にも知られるようになりました。
パリーグの弱小球団だった近鉄バファローズ(現オリックスバファローズ)を支え続けたエースとして、揺るがない実績を築いた鈴木ですが、監督としての評価は日本人メジャーリーガーのパイオニアである野茂英雄との意見衝突なども響き、残念ながら決して高いものではありません。
今回はパリーグを代表するレジェンド、鈴木啓示監督の凄さが分かる名言や語録を紐解き、伝説エピソードから人生哲学まで迫ります。
鈴木啓示について
まずは鈴木啓示の経歴を追ってみます。
1947年9月28日生まれ、兵庫県西脇市出身。育英高校では春の選抜大会に出場して好投。1965年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団します。
早速1年目から10勝をあげ、そこから15年連続で二桁勝利、翌年から5年連続で20勝以上と、あっという間にバファローズのエースに上りつめ、1969年には24勝で最多勝に輝きます。先発完投にこだわり、いまでは考えられないシーズン30完投を記録した年もあるなど、奪三振の多い投手でした。
「パリーグのお荷物」と言われた近鉄バファローズですが、西本幸雄監督のもとで1975年に後期優勝します(当時のパリーグは前後期の二期にわかれていました)が、プレーオフで阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)に敗れます。1978年には因縁の阪急と後期優勝をかけての最終戦に臨みますが、シーズン25勝で3度目の最多勝に輝いた鈴木が、阪急のエース山田久志との対決に敗れ、優勝を逃しました。
しかし1979年に創設30年目にして近鉄は初リーグ優勝し、翌年も連覇。鈴木も10勝、14勝と二桁勝利を飾り連覇に貢献しましたが、力の衰えも見え始めます。1981年には5勝に終わり、その後再び二桁勝利をあげますが、1985年のシーズン途中で引退を決めます。
現役通算20年間で317勝、3061奪三振は共に史上4位の記録で、防御率3.11。最多勝3回、最優秀防御率1回、最多奪三振8回、ベストナイン3回。無四球完投78回、そして被本塁打560本は歴代1位の記録です。通算340完投、シーズン30完投、71完封、シーズン20勝以上8回は、いずれもパリーグ記録です。
引退後は解説者となり、1993年には近鉄の監督に就任。チーム内の不協和音もあり、1995年に辞任。監督として通算3年間で183勝(休養期間も含む)、Aクラス1回。
辞任後は再び解説者として活躍しています。
私が選ぶ、鈴木啓示の凄さがわかる名言・語録
【名言・語録その1】
「草魂」
元メジャーリーガーの上原浩治は「雑草魂」というのを座右の銘にしていましたが、その出所は鈴木が考えた「草魂」という言葉です。これは踏まれても踏まれても、再び太陽に向かって立ち上がる雑草の姿から、不屈の想いを込めて作られた造語です。
今では否定的な見方をされることが多い、昭和のド根性精神ですが、どんな競技でも結果を残している選手は、さまざまな厳しさを耐え抜いています。それを根性と言い換えるならば、昭和に限らず、今の時代でも根性は必要です。
鈴木が入団した当時、近鉄は「パリーグのお荷物」と呼ばれる球団でした。
「先輩たちは負けても平気。最初はプロはそういうものなんかな、毎日、切り替えないといかんのかな、と思っていたけど、考えたら違う。先輩がアマチュアなんだと思った」
プロであろうとした鈴木は、1年目のオフに寮を出て、やる気ののない先輩を煽るように、わざわざライバルの阪急沿線にマンションを借りました。そして先輩たちの敵視をものともせずに、結果を残しました。
また400勝投手の金田正一にカーブを教えてもらおうと尋ねたら「プロの世界はクラブ活動の世界じゃない。金持ってこい」と怒鳴られたそうです。現在のプロ野球選手たちの多くは、互いに情報交換をするなど積極的に情報交換をしているようですが、技術を盗む時代から学ぶ時代になった言えます。
「最後は自分で努力しないといけない」
そんな鈴木の言葉通り、盗もうと教えられようと、どうあれ最後に身に着けるには、努力と根性は必要であり、それを古い思想だと笑うことはできません。
科学的トレーニングも懸命にトレーニングに取り組まなければ意味はないのです。
【名言・語録その2】
「完投や勝ち星よりも威張れる数字かもしれんね」
被本塁打560本に対してのコメントです。この数字は日本最多です。奪三振も多いけれど、被本塁打も多いというのは、ストライクゾーンで勝負する投球スタイルだからです。真っ向勝負を挑んだという本人の矜持を感じさせる言葉です。
「このチームに鈴木姓はワシひとりでええ。他の苗字に変えてくれんかの」
1983年にヤクルトスワローズから鈴木康二朗が移籍してきた時の言葉には、強烈な自負心が感じられます。日本で二番目に多い鈴木姓だけに、苗字が重複するのは日常茶飯事だと言えますが、それだけの成績を残してきたという強い思いが感じられます。
監督としての鈴木は、自分の経験論に基づき、キャンプでスパイクを履いたままランニングをするよう指示し、コンディショニングコーチと対立しました。その火種は野茂英雄や吉井理人らからの反発につながります。
鉄血宰相ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言っています。この言葉は勘違いされがちですが、本意は「自分の経験に学ぶよりも、むしろ他人の経験から学ぶ」という意味です。
監督としての鈴木に対して、様々な批判はありますが、最大の問題点は長く弱小チームの大黒柱だったことからくる克己心ゆえに、学ぶべき対象を見つけられなかったことである気がします。
【名言・語録その3】
「魂の抜けた、ただの草になってしまった」
1985年に現役引退を表明した時の言葉です。
監督時代に対立した野茂はその後、メジャーリーグで旋風を巻き起こしてスーパースターとなり、吉井も活躍を遂げました。その結果から遡って鈴木が批判されたのは、あまりフェアとはいえません。
少なくとも野茂に関しては自由契約ではなく任意引退扱いにした球界も、マスコミも、ファンさえも、彼が活躍するまでは批判の方が多数だったからです。
鈴木は監督時代のことについて「力不足やった」と自らの失敗を認めています。野茂が引退した際には、彼が残した業績に対して「頭がさがる思いだ」とも語っています。それに対し、野茂をバッシングした球界やマスコミやファンはいつの間にか掌を返し、鈴木を野茂批判の先鋒として祭り上げたようにも見えます。
鈴木の采配やコミュニケーション力についての客観的批判は当然されるべきです。それと同時に、鈴木が監督の頃に抜擢した選手には中村紀洋、水口栄二がおり、後に「いてまえ打線」を形成する選手たちの多くがドラフトにかかっている事実もまた評価すべきです。
少なくとも、今は無き近鉄バファローズというチームで、エースとして317回の勝利に導き、球界レジェンドとして、そのチーム名を後世まで残す活躍をしたことは、プロ野球ファンとして敬意を表するべきところだと思います。
BBM2017 タイムトラベル 1975 パ・リーグタイトルホルダー No.PT8 鈴木啓示
名言からの学び
・いつの時代にも、何かを成し遂げるには、根性も必要である。
・自らの経験より、他者から学ぶことの方が多い。
・正しい批判こそが、正しい評価をもたらす。
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