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永川勝浩の凄さが分かる名言・語録集!広島の守護神の伝説エピソードから努力論まで


それぞれ球団には特別な背番号というものが存在します。永久欠番はもちろんですが、大きな活躍をした選手たちが背負った番号は、その後も期待の証明として、ルーキーやブレイク寸前の選手に継承されます。広島カープにおいて背番号20はそんな番号のひとつであり、1976年から2019年までたった二人の選手によって受け継がれました。そのひとりが永川勝浩です。

広島カープの背番号20は1976年に北別府学が付けて以来、1994年の引退後は誰も背負う事なく、2003年になって永川が付けることになります。つまりおよそ半世紀近く、この二人だけが背負ったわけです。北別府は通算213勝5セーブ、永川は通算38勝165セーブと、二人で411勝に貢献しています。

広島生まれの永川は、カープ初の200勝投手である大エース北別府をファンとしてよく知っていました。だからこそ入団時には20番を背負うつもりはなく、16番を選択したそうです。しかしチームは彼にあえてプレッシャーにもなり得る20番を与え、そしてカープ初の150セーブをあげる投手となりました。

今回はカープを代表する守護神永川勝浩の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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永川勝浩について

まずは永川勝浩の経歴を追ってみます。

1980年12月14日生まれ、広島県三次市出身。中学時代はバスケットボール部に所属し、新庄高校で野球部に入ります。卒業後、亜細亜大学に進学。同期の木佐貫洋と共に両輪としてチームを支え、4年次には明治神宮大会で優勝、2002年のドラフト会議にて自由獲得枠で広島東洋カープに入団しました。

ルーキーイヤーから開幕1軍入りを果たし、不在となっていたクローザーに抜擢。新人ながら25セーブをあげます。翌2004年は不調と肩痛によりクローザーとしても先発としても結果を残せず、2005年にはセットアッパーとして復活し、チーム最多の登板数を記録します。

2006年はシーズン途中から再びクローザーを任され、リーグ最多登板をし、27セーブをあげます。翌2007年から2009年まで3年連続で30セーブ以上を記録。史上7人目となる通算150セーブも達成します。2010年に右足内転筋を故障し、その後は全盛期の力を取り戻せぬまま中継ぎとして奮闘しますが、2019年シーズン終了後に引退。

プロ通算17年間で38勝79ホールド165セーブ、防御率3.46。

引退後はカープのコーチとして後進の指導に当っています。

 

私が選ぶ、永川勝浩の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「逃げることはできない。すべて行動に移して打破していくしかない」

永川曰く「何試合(勝ち星を)消してきたかわからない。僕の失敗ののせいで、プロで1勝もできずに辞めた選手もいます」と言い「本当に迷惑をかけました」と話しています。永川がストッパーだった頃のカープは長期低迷の時代であり、勝てなかったのは彼のせいだけではありませんでした。しかしストッパーというポジションは勝敗に直結する役割だけに、悔いも残るのでしょう。

永川は大きく足を上げる投球フォームから速球とフォークボールで勝負するタイプの投手で、制球を乱しやすく、またストッパーとしてはやや被打率も高い方でした。ですが逃げずに黙々と投げ続け、カープ史上最多のセーブをあげました。

「行動に移して打破」していこうとする永川は、左膝の手術の後、1軍登板がなかった2017年オフにサイドスローでの投球を試みています。

「結果を残し続けないといけない。自分でも敗戦試合ならば若い投手に投げさせた方がいいというのは分かっている」

 

2018年、743日ぶりの1軍での登板でも、永川は現状打破のために苦悩していました。それは前の日に打たれて誰かの勝ちを消してしまっても、また翌日同じような場面で投げなければならない、ストッパーとして刷り込まれた苦悩なのだと思います。

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【名言語録その2】

「すべての時間を自分にのために費やせることをプラスに捉えたい」

永川のように足を高くあげる投球フォームを維持するには、強靭な足腰が必要です。そのために「しっかり走りたい」というのが、左膝の手術の動機だったそうです。

「昔は結果もそこそこ出ていましたし、変化をしなくてもいいというところはあったと思います。本当にすぐに調子にのる性格で、何でも簡単にできると思っていました」

 

中学時代はバスケットをやっていて、坊主頭にしなくて良いことと練習が厳しくないことから、高校では野球部に入ったという永川。それでも頭角を現し、大学は全国屈指の厳しさで知られる亜細亜大学に進学するのですから、「調子にのる性格」だというのもわかる気がします。

2010年に右足内転筋を痛めますが、永川はそれについて後に「当時はそんなこと思わなかったですけど、いま思えば、あそこで終わっていたんだろうなと思います」と話しています。事実、それ以降の永川の成績は振いません。

しかし永川は「あれがあったから頑張れたのかもしれない」とも言っています。その後も何度故障をしても「調子にのり」ながら「自分にのために費やせる」時間を前向きに努力できたからなのでしょう。

 

【名言語録その3】

「20番をもう少しきれいな形で終わりたかったなとは思います」

永川の引退試合は、チームがクライマックスシリーズを争う中で行われました。そのため彼は5461日ぶりに先発のマウンドに立ち、打者ひとりに対して投球しました。登板に先だって、永川の長女が始球式を行い、見事なノーバウンド投球を見せてくれており、「17年間で一番といっていいくらい緊張しました」というマウンドを無事に終えました。

引退に際して永川は「次にこの20番を付けて投げる投手に、北別府さんのような200勝できる投手、もしくはクローザーになるのであれば、球団新記録を塗り替えられるような選手になってもらいたい」と語っています。

そして2020年のドラフト1位入団の栗林良吏が、背番号20を継承しました。栗林は永川同様にルーキーイヤーからストッパーとして活躍し、開幕から22試合連続無失点を記録、東京オリンピックでも2勝3セーブと金メダル獲得に大きな貢献しました。

栗林は背番号20について「北別府さんや永川さんのように、チームの顔と呼ばれる選手にならないといけないと思っています」と話しています。

その栗林をサポートしているのは、コーチとなった永川です。結局は見事に「きれいな形」で20番が継承されたのではないかと思います。

 

名言からの学び

・行動が現状を打破する

・自分に費やせる時間を大切にする

・伝統は見えない力として継承される

 

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