村田修一の凄さが分かる名言・語録全集!天才ホームラン王の伝説エピソードから人生哲学とは?
松坂世代といわれるプロ野球選手はWikipediaによると94名もいるそうです。投手では当人である松坂大輔の他、和田毅、藤川球児、杉内俊哉など好投手を多く輩出しています。一方、野手の代表格は2度のホームラン王に輝いた村田修一でしょう。
その村田も高校時代は好投手として知られており、甲子園では松坂と投げ合ったこともありますが、松坂をよく知るがゆえに、投手としての限界を感じて野手に転向し、打者として世代を代表する選手になりました。
奇抜なヘアスタイルや、誰かの引退試合で妙に目立ってしまうなど、何かとお騒がせな面を持ち、「男・村田」を掲げることにこだわったのは、やはり「松坂世代」の多くのライバルたちを意識していたからかもしれません。
今回は「松坂世代」最強のスラッガーである村田修一の凄さが分かる名言や語録を紐解き、天才ホームラン王の伝説エピソードから人生哲学に迫ります。
目次
村田修一について
まずは村田修一の経歴を追ってみます。
1980年12月28日生まれ、福岡県粕屋郡出身。東福岡高校の3年生の時、春夏共に甲子園出場を果たし、春は世代を代表する松坂大輔と投げ合って破れています。卒業後は日本大学に進学し、投手では松坂に勝てないと感じたことから野手に転向。東都リーグで通算20本塁打を放ち、2002年のドラフトでは自由獲得枠で横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)に入団します。
1年目から1軍に上がり、9月には月間10本塁打を放つなど長距離砲としての才能を見せますが、最終盤に死球で骨折。それでも年間25本塁打を記録します。2年目は不振に陥りますが、4年目には34本塁打を記録。代わりに三振も多く、その荒っぽい打撃は賛否ありましたが、そこから3年連続で30本塁打以上100打点以上をあげ、リーグを代表する長距離砲として活躍します。
2011年のオフに読売ジャイアンツへFA移籍。2012年には4番も任されますが、打撃不振もあり12本塁打に終わります。しかしその翌年、打撃を見直し、打率3割、25本塁打、自己最多の164安打を記録。オフには選手会長に就任します。2014年に通算300本塁打を達成。2016年にも打率3割、25本塁打を残しましたが、2017年のオフに戦力外となります。
2018年は独立リーグでプレイしますが、NPB復帰の目途が立たなかったことから引退。
現役通算15年間で、1865安打、360本塁打、通算打率.269。本塁打王2回、ベストナイン4回、ゴールデングラブ賞3回。
2019年からはジャイアンツのコーチに就任しました。
私が選ぶ、村田修一の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「いわゆる松坂世代、投手は大輔、野手は村田と言われるようになりたいですね」
松坂と甲子園で投げ合ったことで投手を諦めた村田。野手として目標通り、松坂世代を代表する選手となりました。ベイスターズ時代には派手なデザインのモヒカンヘアで、自らを「男・村田」とアピールし、本塁打狙いの豪快な打撃は、個性的で潔くもありましたが、荒っぽくもありました。
また村田は他の選手の引退試合で、何度か目立つ活躍をしています。鈴木健の引退試合では、鈴木の何でもないファールフライを村田はあえて捕球せず、鈴木はその後にプロ最後の安打を放ちました。佐々岡真司の引退試合では、9回2死から最後のマウンドに立った佐々岡からホームランを放ち、試合後に佐々岡に謝罪しています。そして矢野燿大の引退セレモニーが行われる試合では、村田のホームランによって矢野の出番がなくなってしまいました。
鈴木の件は、プロ野球界の慣習みたいなもので、引退試合のファールは捕れないフリをすることもありますから、村田は単にそのフリが下手だったといえます。矢野の件は試合の流れもあるので不可抗力と言えます。そして佐々岡の件は、村田が本塁打王争いの最中だったためでした。
「打って辛いホームランは今日が初めてです」
佐々岡からのホームランに対し、そう語った村田ですが、ルーキーイヤーから3年連続最多勝利を飾った松坂に対して、是か非でも本塁打王を取りたいと願う気持ちの表れであったような気がします。
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【名言語録その2】
「全打席、基本的にはホームランを狙っていた」
あくまでもホームラン狙いの豪打が売りの村田でしたが、同時に脆くもあり、三振も多く喫しています。当時のベイスターズは多村仁やタイロン・ウッズを擁した強打のチームであり、村田もまた自分が打って勝つという意識があったように思います。
しかし「自分を変えるためには、横浜を出た方がいい」と考えはじめ、2010年のオフには福岡ソフトバンクホークスへのFA移籍を決めかけましたが、長男の病気のため残留しました。その翌年、WBCで監督だった原辰徳からの強い勧誘もあり、ジャイアンツに移籍します。
移籍後は不振の年もありましたが、徐々に全打席ホームランを狙うような打撃ではなくなっていきます。
「ホームランがすべてではないから、そういう時には最低限ヒットで繋ぐ」
同じ人物の言葉と思えませんが、チームによって求められるものは当然違ってくるわけで、常に優勝争うチームに移籍したことにより、チームバッティングの意識が強くなったのだろうと思います。
まさに環境によって人は変るということなのでしょう。
【名言語録その3】
「勝ちたいですね。勝つことによって覚えることもたくさんあると思うし」
自分を変えようと移籍したジャイアンツで、1年目から優勝争いをします。マジック15が出ていた9月7日に、村田はチャンスで三振し、続くチャンスでも併殺打を放ち、わずか2回で交代させられました。そして原監督から「今夜はもう自宅に帰っていい」と帰宅を命じられたそうです。
原監督の言葉には「リフレッシュして明日また」という続きがあったそうですが、村田としては悔しかったようで、自宅で頭を丸刈りにしました。
「緊張感はあると思うけど、思い切ってバットを振れば巨人に来てよかったと思えるはず」
そう思って移籍したジャイアンツでは「胃がやられそうだった。こんなに深呼吸をしながら野球をしたことがない」というほど苦しみ、そんな中でも主軸として結果を残した村田。松坂世代最高のバッターとして、移籍後にリーグ優勝、そして日本一にも貢献出来たことは、大きな経験となっていることでしょう。
これからはコーチとして令和を代表するスラッガーを育てることに期待したところです。
村田修一さんのその他名言・語録の全て
ここでは上記で挙げたもの以外で気になる名言・語録の全てをご紹介します。お気に入りの言葉を是非見つけて下さいね。
10年後にあの一年があったから今の俺があると思えるような一年にしたい。
辞めるのは簡単
どんな状況でも強くバットを振れる構え。そして、気持ち、心の準備を大事にしています。
まだ野球をしたい。プロで現役生活を続けたい。
僕を必要としてくれるチームがあるのなら、条件面にそこまでこだわりはないです。
世間様から見れば若干36歳。まだまです。最後まで走りぬきますよ。
あきらめない。 最後の最後まで逆境に立ち向かった「男・村田の流儀」【電子書籍】[ 村田 修一 ]
名言からの学び
・空気を読まない強さもある。
・環境によって人の在り方も変わる。
・プレッシャーに打ち勝つことで理解することもある。
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