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小林繁の凄さが分かる名言・語録集!江川卓とのトレード事件でのエピソードから人生哲学まで


プロ野球のドラフト史上、社会問題化し、大きく世間を騒がせた事件といえば1969年の「荒川事件」と1978年の「江川事件」でしょう。「荒川事件」では当事者である荒川尭が暴漢に襲われる悲劇を生み、「江川事件」では交換トレードが成立し、因縁の対決を生み出しました。その江川卓とのトレード相手となったのが小林繁です。

細身の体で、印象的な変則サイドスローからタイミングを外すように投げ込まれるボールは切れ味鋭く、二枚目ぶりと相まって人気選手になった小林。江川とのトレードで悲劇のヒーローとなりましたが、その悲劇性ではなく、しっかりと実力でリベンジしてみせました。しかもジャイアンツVSタイガースという対決だけに、東西のファンが大いに盛り上がりました。

わずか11年という短い現役時代と、57歳という壮年での逝去という最期まで悲劇性を帯びていた小林ですが、高校時代から逆境をバネにして這い上がってきた男だけに、ふたつのチームでエースとなり、ルーキーとのトレードにもめげずに輝き続けた姿は「悲劇」という言葉は要らず、ヒーローそのものです。

今回は江川卓とのトレード事件に翻弄された小林繁の凄さが分かる名言や語録を紐解き、トレード事件でのエピソードから人生哲学にまで迫ります。

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小林繁について

まずは小林繁の経歴を追ってみます。

1952年11月14日生まれ、鳥取県東伯郡出身。由良育英高校では野手への転向の勧めもありましたが、それを断り、2年の時にサイドスローに変えて、3年にはエースとなります。関西大学へのスポーツ推薦が決まりかけていましたが、大学がスポーツ推薦を廃止したため大丸に入社。

1971年ドラフト6位で読売ジャイアンツが指名しますが、大丸への恩返しもあり、いったん入団を拒否して都市対抗野球で活躍。その後、交渉権が失効する前に契約し、1年遅れで入団します。

ルーキーイヤーはシーズン終盤に1軍に上がり好投。1974年には1軍に定着し、先発からリリーフまでこなしました。1976年、先発ローテーションに定着し、18勝をあげてリーグ優勝に貢献。翌1977年もリーグ連覇に力を尽くし、沢村賞を受賞。エースとしての地位を得ました。1978年には3年連続2桁勝利を記録します。

しかしジャイアンツは1978年のドラフト前に、野球協約の盲点を突き、前年のドラフトでクラウンライターライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)の1位指名を受けて入団拒否をしていた江川卓と契約。反発を受けてドラフト会議をボイコットし、江川は阪神タイガースが指名する事態となります。コミッショナーの要望により、江川はいったんタイガースへ入団後、ジャイアンツへトレードされることとなり、トレード相手が小林となりました。

1979年、タイガースへ移籍した小林はジャイアンツ戦に8連勝するなど、22勝して最多勝利と共に2度めの沢村賞を受賞し、そこから5年連続で2桁勝利(ジャイアンツ時代からだと8年連続)をタイガースでもエースとして活躍します。そして1983年にも2桁勝利を記録しながらも、血行障害による不本意な投球だったため、引退を決意しました。

プロ通算11年間で139勝、17セーブ、防御率3.18。沢村賞2回、最多勝利1回、ベストナイン2回。

引退後は野球解説者、大阪近鉄バファローズや北海道日本ハムファイターズ、韓国プロ野球でもコーチをしましたが、ファイターズのコーチを務めていた2010年に心筋梗塞で急逝。57歳でした。

 

私が選ぶ、小林繁の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「僕はジャイアンツを追い出された人間ですから」

直近の3年間で49勝もあげていたエースが、いかに「怪物」と呼ばれていたとはいえ、まだプロで一球も投げていない投手とトレードとなれば、何も思わないはずはありません。それは本人以上に周囲もそう思いました。

 

「僕は嫌で阪神に行くのではない。期待されて行くんです。誰からも同情の目で見てもらいたくない」

トレード会見でそう話した小林でしたが、世間は江川やジャイアンツとの遺恨を殊更に強調し、江川を悪党、小林を悲劇のヒーローに仕立て上げました。

小林自身にも複雑な思いはあったようですが、それでも江川との初対決で敗れた後、「負けはしたけど、これでスッキリした」と語っています。更に「僕と関りのないところで、小林と江川と騒がれて、わずらわしくてたまらなかった。僕の野球人生についてまわる、そのわずらわしさから、これで解放された。これで普通の投手に戻れる。あの子が勝ってよかったんじゃないの。だってあの子が負けたら、また何を言われるかわからないもの。可哀想だよ」とも話しています。

確かに小林にとって、ぎりぎりでジャイアンツV9メンバーに名を連ねられたことは誇りだったようです。1973年、ルーキーながら負ければ優勝は絶望的という場面で投げ、好投して引き分ける活躍をしています。しかしジャイアンツに愛着はあっても、それがすべてではありませんでした。

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【名言語録その2】

「俺はタイガースで優勝したい。でもこんなにいい選手がそろっているのに勝てないのは、気持ちがバラバラやからやないんか」

小林がある日、川藤幸三にそうもらしたそうです。破天荒な関西人というイメージの川藤と、ダンディで都会的な小林が、実は仲が良かったというのは意外に見えますが、共にハートが熱いという点では共通しています。

小林は更に「俺はジャイアンツで勝つことを叩き込まれた。勝つための執念を持て、そのためには時には自分を捨ててまとまれということを教わった。タイガースにはそれがない。みんな、自分の仕事をしておしまいや」と語り、川藤にチームをまとめ役を頼んだそうです。

V9という偉大な記録を残し、勝つことが至上命題だったジャイアンツと、優勝とは縁遠く、甲子園で頑張ればいいだけのタイガースとでは、選手の雰囲気が違うのは当然でしょう。

岡田彰布は小林の言葉で「巨人の選手は試合の前にひげを剃るけど、阪神の選手は試合が終わってからひげを剃る」という言葉が忘れられないそうです。ジャイアンツは戦いに備え、タイガースは試合後に街へ繰り出すのに備える、という揶揄ですが、最初は反発も大きかった小林の姿勢ですが、次第に川藤や岡田だけでなく感化される選手が増えて行きました。

 

「誰もが小林の執念、勝つことへの真剣さに影響を受けた。優勝のときにはいなかったが、間違いなくあいつは85年の優勝に貢献したんや」

川藤のその言葉が、小林の思いをすべて代弁しているように思います。

 

【名言語録その3】

「しんどかったよな。俺もしんどかったけど、2人ともしんどかった」

2007年に酒造メーカーのCMで、因縁のトレードから28年目にして小林と江川が対談した際に、小林が江川にかけた言葉です。

江川は球団からトレードでの決着を聞かされた時、金銭トレードを希望したそうです。しかしそうはなりませんでした。

 

「他人につくられた問題だから、俺たちがつくった問題ではない」

江川について尋ねられると、ずっとそう話していた小林。江川は小林が急逝した際にも「小林さんに対して、申し訳ないという思いは終わってません」とコメントしていますが、「空白の一日」を画策したのは球団であり、トレードで解決しようとしたのはコミッショナーであって、いずれにしても彼らにはどうしようもなかった問題です。共に翻弄された者として、小林の中では整理されていたと思います。

急な引退でもいろいろ言われた小林ですが、血行障害であることを川藤だけに話し、「優勝がかかった試合で投手にゴロが来て、それをこの指のせいで悪送球したらどうなる。みんなに申し訳が立たん」と引退を決めました。

 

「尊敬する王さんに一本足を捨てさせた。それが僕の誇りです」

1979年7月の試合で、小林の投球にタイミングの合わない王が、代名詞の一本足をせずに打ったことがありました。結果はヒットを打たれたものの、一本足を捨てさせたことが小林の誇りになりました。それと同時に「でもチームのためなら自分の誇りを捨ててでも勝利に貢献しようとする、王さんのすごさも感じた」そうです。

川藤に話した内容とも重なる、実に小林らしい視点だと思います。

 


情熱のサイドスロー ~小林繁物語~

 

 

名言からの学び

・愛着は常に過去の記憶である。

・執念なくして勝ち取れるものはない。

・誰もが苦労し、あがいている。

 

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