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川相昌弘の凄さが分かる名言・語録集!かっこいい送りバント職人の努力論から人生哲学まで

2019/06/19


2020年の東京オリンピックでは、再び野球が競技として加わります。

野球の国際大会があるごとに、日本の野球スタイルとして掲げられるのが「スモールベースボール」です。長打に依存せず、ヒットエンドランや盗塁、犠牲バントとった戦術を使って、こつこつと得点して行くものですが、日本のWBC連覇などでも強力な投手力を生かしたこの戦い方で栄冠を勝ち取りました。

そういった日本的な野球の象徴でもある犠牲バントを、世界でもっとも決めているのが川相昌弘です。

通算で533回の犠打を成功させ、その成功率はなんと.906に及びます。2位である平野謙の451回を大きく上回り、更にはメジャーリーグ記録の512回を越える世界記録は、まさに日本的な犠牲精神の結果として話題になりました。

戦術としての犠牲バントの有効性については、さまざまな論議がありますが、犠打が打数から除外されることが決まったのは1894年です。それまでは凡打として扱われていましたが、チームプレイに励んでいる打者は正当に評価されるべきという議論があったようです。つまりその頃からチーム戦術のひとつとして認められたプレイでした。

今回はかっこいい世界一の送りバント職人である川相昌弘の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その努力論から人生哲学にまで迫ります。

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川相昌弘のプロフィール詳細

まずは川相昌弘の経歴を追ってみます。

1964年9月27日生まれ、岡山県岡山市出身。岡山南高校では投手として甲子園に出場。1982年のドラフトで読売ジャイアンツに4位で指名されて入団。入団後に内野手に転向します。

守備力がかわれて1984年から1軍出場し、翌1985年には守備固めで1軍に定着。しかしレギュラー定着は難しく、打力強化のためにスイッチヒッターを試みるなどもしましたが、結局は元に戻します。

1989年、藤田元司が監督に就任し、その守備力から遊撃手のレギュラーとなり、ゴールデングラブ賞を獲得

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その翌年、年間58犠打と当時のシーズン記録を作り、守備力と共にバントの名手としても知られるようになります。更に1991年には66犠打を記録。1994年には初の打率3割を達成します。

1998年に平野謙が持っていた通算451犠打の日本記録を塗り替え、名実共に日本でナンバーワンの犠打職人となります。2003年にメジャー記録も越え、ついに世界一となりました。

2003年に一度は引退を表明しますが、後にそれを撤回。ジャイアンツを退団し、中日ドラゴンズに移籍します。犠打と守備要員の他、メンタルアドバイザーとしてもチームに貢献。2006年の日本シリーズでの犠打を最後に引退します。

現役通算23年間で、1199安打、本塁打43本、打率.266。通算の犠打数は533に達しました。ゴールデングラブ賞6回、ベストナイン1回。引退後はドラゴンズのコーチ、二軍監督、そしてジャイアンツの二軍監督、ヘッドコーチ、三軍監督を務めました。

 

私が選ぶ、川相昌弘の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「バントで勝負しようとか、そういう気持ちはなかった。レギュラーを取るためにやらなければならないことのひとつだった」

通算犠打533、成功率.906という、まさに職人芸といえるバントのうまさを見せた川相ですが、高校時代はエースで主軸を打っていました。プロ野球選手になるほどの人たちは、子どもの頃からその地域では頭抜けた才能を見せる者が多く、かなり多くがエースで4番です。川相もまたそんな選手のひとりでした。

高校野球ではバントが多いとはいえ、主軸の選手が試合でバントをするケースは少ない筈で、川相はプロに入って生き残るために、バントの練習を必死でやったのでしょう。

犠打が効果的かどうか、メジャーでは統計的にノーアウト1塁の方が、ワンアウト2塁の形よりも2割近く得点確率が高いといいます。アメリカのある統計によると前者が.891、後者が.682となるそうです。

ただこれはランナーの有無に関係なく、アウトカウントが少ない方がその後にヒットが出る確率は高くなるとも解釈できるわけで、正しい証明とは言えません

確かな事は、投手も野手も得点圏にランナーがいると、考えることも増えますし、緊張し、力も入ります。

投手はランナーに気を取られ、速球が多くなるし、クイック投法では球威も落ち、暴投を恐れてコントロールも甘くなりがちです。野手もバックホームに備えた守備位置に変えるとか、ランナーの動きにも注意が必要になります。

それによって得点できなくても投手の疲れが早く出たり、野手もバッティングに集中できなかったりします。そういった心理戦もまた野球の戦術であり、面白みでもあります

 

「初回からバントするような野球は好きではない」

バントの名手がそう言っているのは興味深いところです。犠打はより相手にプレッシャーがかけられる場面でなければ、効果は薄いというのをよく理解しているからなのでしょう。

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【名言語録その2】

「ひとりになった時に、一個人になった時に、どれくらい陰で努力できるか。これが日々の差につながる」

川相がジャイアンツの二軍監督だった時に、前の打席でバントを失敗していた選手に、ツーアウトからバントのサインを出したそうです。それに失敗して戻ってきた選手には「帰れ!」と怒鳴りました。記者に問われた川相は「厳しくて当たり前じゃないですか」と答えたそうです。

 

「育成は2、3年やったからって変わるわけではないんです。時間をかけて育てていかないといけないんじゃないですか」

その言葉にはプロとして生き残るために、守備力とバントという自ら武器を磨き続けた川相ならではの厳しさと優しさが込められているように思います。そしてそれは教えられて学ぶだけではなく、課題をもって陰でどれだけ努力できるかを問うていたのではないでしょうか。

 

「監督やコーチからなんと言われようと、もういいです、それで結構です、とは絶対に言うな。そう言ったら終わりなんだ、この世界は。どんなことがあっても、やるって言え」

ドラゴンズに移籍後、川相は悩んでいた荒木雅博にそうアドバイスしたそうです。川相が毎年のように有力選手が入団してくるジャイアンツで競争に勝ち抜くために、求められる仕事に挑み続けた経験から出た言葉なのだと思います。

 

「頭がよければ頭を使え。そうでなければ汗をかけ。男は汗を惜しむな」

まさに金言だと思います。

 

【名言語録その3】

「優勝争いの中に身を置けなくなったら、役目は終わり」

川相が引退を決めた時の言葉です。川相は一度ジャイアンツでも引退を宣言しましたが、それを撤回しドラゴンズへ移籍しました。当時、親会社が新聞社ということもあり、ジャイアンツとドラゴンズは互いに強く意識しあっていたようで、乱闘も多くありました。

ある時、川相の頭の上にボールが来て、激しく怒ったのですが、ドラゴンズの星野仙一監督が出てきて「お前なんかに当てるか!」と怒鳴り返されたそうです。なので移籍するにしてもドラゴンズはないと思っていたようですが、落合博満が監督になったこともあり、川相を放ってはおかなかったようです。

「日本一を置き土産に有終の美を飾れたら、最高の野球人生だね」

その願いは日本シリーズへの出場と、犠打を決めるところまでは叶いましたが、残念ながら日本一は逃してしまいました。

「おいあくま。『お』は怒るな。『い』は威張るな。『あ』は焦るな。『く』はくさるな。『ま』は迷うな」

そんな川相の潔い人生哲学は、次世代のプロ選手に受け継がれていって欲しいものです。

 

名言からの学び

・必要なことを迷わず実践するのがプロである。

・自分への投資として努力を惜しまない。

・個のためよりチームのために働くことが更に大きな満足につながる。

 

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