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権藤博監督の凄さが分かる名言・語録集!殿堂入りを果たした球界レジェンドの伝説エピソードから人生哲学まで

2019/09/29


令和元年、高校野球では投手の登板過多について論議になりましたが、プロ野球でもかつてはエースが出来るだけ登板間隔を短くして投げるのが普通でした。先発ローテーションが定着するのは1980年代になってからの事です。シーズンの投球回数記録の上位者は戦前か戦後まもなくに活躍した選手がほとんどですが、1960年代以降では69試合で429.1イニング投げた権藤博が最多です。

権藤が現役の頃、プロ野球の年間試合数は130試合ですから、半数以上の試合に登板し、各試合平均6.2イニング投げたことになります。「権藤、権藤、雨、権藤、雨、雨、権藤、雨、権藤」と例えられたほどの酷使で、二年連続で30勝以上をあげたものの、事実上それで選手生命を終えたと言える権藤

1998年には横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)を率いて、大魔神佐々木主浩を抑えに、中継ぎも3連投は避けてローテーションを組むというメジャーリーグ的な起用法を作り上げ、チームに38年ぶりのリーグ優勝と日本一をもたらしました。

今回は権藤博監督の凄さが分かる名言や語録集を紐解き、野球殿堂入りを果たした球界レジェンドの伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。

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権藤博について

まずは権藤博の経歴を追ってみます。

1938年12月2日生まれ、佐賀県鳥栖市出身。鳥栖高校の頃は内野手でしたが、投手として登板した内容が評価され、西鉄ライオンズから誘われたもののブリヂストンタイヤに入社。「織田幹雄記念国際陸上競技大会」にその名を残す日本人初のオリンピック金メダリスト織田幹雄が、権藤を陸上にスカウトしたがったというほど、運動能力に優れていました。

1961年に中日ドラゴンズへ入団。1年目からエースとして大車輪の活躍をし、69試合で429.1イニング投げ、35勝、防御率1.70を記録。新人なから投手のタイトルを総なめにします。2年目も62試合で362.1イニング投げ、30勝して連続最多勝を獲得しますが、登板過多がたたり、肩を故障。翌年は10勝、更に次の年は6勝と成績を落とし、1965年には野手に転向。1968年に再び投手としてマウンドに立ちますが、1勝しかあげられずに引退。

投手としては5年間で82勝、防御率2.69。新人王、沢村賞1回、最多勝利2回、最優秀防御率1回、最多奪三振1回、ベストナイン1回。打者としては8年間で214安打、18本塁打、打率.206でした。

引退後は解説者の他、コーチとして古巣のドラゴンズ、近鉄バファローズ(現オリックスバファローズ)、福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)で指導し、1997年には横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)の監督に就任します。

大魔神と呼ばれた佐々木主浩という絶対的な抑えと、中継ぎローテーションと呼ばれた巧みな継投術、選手にあれこれ教え過ぎない、指示しすぎない「奔放野球」で1998年、ベイスターズは38年ぶりのリーグ優勝と日本一を勝ち取ります。

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3年間の監督生活で、219勝をあげ、すべてAクラスという成績ながら、アクの強さから契約満了で退任。その後はドラゴンズやWBC日本代表のコーチなども務めています。

 

私が選ぶ、権藤博の凄さがわかる名言・語録

【名言・語録その1】

「試合は生き物ですから、プランなんて立てても、しょせんは絵に描いた餅に過ぎないでしょう」

2017年のWBCで日本代表の投手コーチを務めた権藤ですが、戦況に合わせて、臨機応変に継投を決める手法には賛否両論がありました。起用方法が分からない不安に登板を嫌がる投手もいたようです。

2012年にドラゴンズのコーチだった時代にも、当時の高木守道監督がファイナルステージ(現在のクライマックスシリーズ)での投手起用法について問われ「そんなことは投手コーチに聞いてくれ」と怒鳴ったという事件がありました。

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浅尾拓也の継投起用を権藤が渋り、不調だった岩瀬仁紀を登板させ、失点したことが原因だったようですが、好調だった浅尾を出したい高木の気持ちも分かります。しかし浅尾は2年連続で70試合以上も登板していました。結果として選手寿命が短命に終わったのを考えると、権藤が浅尾をなるべく休ませたいと考えるのも理解が出来ます。しかも岩瀬は申し分のない実績を持ち、前の登板でも1回を三人で抑えていました。

他の試合でも早々に先発が打ち込まれると、高木はすぐに投手を変えたがるので、権藤は思いとどまらせていたそうです。高木が現役の頃のように年間130試合ではなく、144試合でしかもプレイオフもあるとなると、日本シリーズに進出するまで20試合近く試合数が違います。それだけ中継ぎ投手の負担が大きくなるのです。

 

「打撃陣は練習で調子がいいからと起用して3-0でもその日はしょうがない、となる。でも投手陣は8割抑えても、大事な場面で打たれると批判される。岩瀬もたったあの1点だけじゃないですか、と言ってやりたくなるんですよ」

投手経験者と野手経験者の考え方の違いについてはよく言われることですが、投手の目線と自らの経験と個性が混じり合った権藤の手腕は、どうあれチームを上位に押し上げたり、核となる投手を育てたりして十分な結果を残している事実なしに論じられるべきではないだろうと思います。

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【名言・語録その2】

「Don’t over taech」

翻訳すれば「教え過ぎるな」という意味になります。権藤がアメリカの教育リーグを視察した際に、バッティング練習をしていた選手にアドバイスをして、うまく打てるようになった時、それを聞いたコーチが権藤に言ったそうです。

「教えてくれるのはありがたい。でも教えられて覚えた技術はすぐに忘れてしまうものなんだ。それとは逆に自分でつかんだコツというのは忘れない。だから私たちコーチは、選手がそのコツをつかむまでじっと見守ってやらなければならないんだ」

権藤はその言葉を聞き「Don’t over taech」という事を心に刻みつけたのだそうです。以来、それが権藤のコーチスタイルになっていきます。

 

「厳しく接する、あるいはハードトレーニングを課す、それを厳しさだと勘違いしている指導者がいるが、厳しく接するのも、ハードトレーニングを課すのも、精神的、肉体的にダメージを与えているだけであって、それは厳しさではなくて、イジメである」

まさにその通りだと思います。アマチュアの現場では、中学生くらいでもハードトレーニングが当たり前になっています。またそこには大船渡高校の佐々木朗希の登板回避問題にもつながるものがあります。

権藤は高校野球の球数制限には反対の立場です。この問題の本質は「球数より投げ方」だと言い、「球数制限の前に日程をなんとかせないかんでしょう」と話しています。

 

「私はピッチャーは中4日で100球投げるより、中6日で150球を越えて投げる方が、ダメージは大きいと思う」

球数制限に反対とはいっても、単純に何球でもいいというのではなく、適切な登板間隔と球数を考えろということのようです。また自身の登板過多について、もし自分が当時の自分のコーチだったらどうするかと問われ「投げ方を変えさせます」と答えた権藤。

 

「肩や肘を壊さない正しい投げ方を教えられる指導者がどれだけいるか」

それは花巻東高校の佐々木洋監督が、高校野球において選手よりも指導者の問題が大きいことを示唆しているのと共通しています。

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【名言・語録その3】

「『Kill or be killed』、やるかやられるか。やられたらやり返せ。だから打たれたらすぐ翌日出す。ダメでももう1回出す。3回もやられやせんって。その代わり3回やられたらファームだと」

1998年に権藤のもとで日本一となったベイスターズには、絶対的な抑えである佐々木がいましたが、権藤はシーズン終盤になるまで「無理せず、急がす、はみ出さず。自分らしく淡々と」と自分に言い聞かせて、早い回から佐々木を登板させる誘惑を断ち切っていたそうです。

「やるかやられるか」という激しさの裏には、そのような強い自制心がありました。ミスも3回まで許すというのも、勝負の世界ではなかなか我慢しきれないものだと思います。そんな熱さと冷静さが混じり合っているところが権藤らしさなのでしょう。

 

「監督と意見が食い違うことがなければ、最初からコーチはいらないわけですよ。イエスマンはいらない」

勝つために諫言も持さないところに、紳士風の要望とは正反対の戦う熱さを感じます。


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名言からの学び

・経験や個性は現れた結果で評価すべきである。

・課題の多くは指導者の質に関わっている。

・良き指導者には諫言できるコーチが必要である。

 

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