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福良淳一の凄さが分かる名言・語録集!守備の名手の伝説エピソードから努力論まで

監督の野球観によって大きく役目が変わる打順、それは2番打者ではないでしょうか。近年、メジャーリーグでは強打者を置くなどしていますし、日本でもその真似をする監督が出てきています。しかし従来日本ではバントやヒットエンドランなどの小技が上手い選手が置かれていました。では最強の1番打者イチローが考える最高の2番打者は誰かというと、福良淳一です。

ある野球ゲームの企画でイチローが自ら12人の選手を選んだ「イチローセレクション」のひとりが福良でした。イチローはその理由について「最高の2番バッターですね。今、2番の定義は全然変わってしまいましたけど、これが2番だっていう2番」だと話しています。

また強豪だった阪急ブレーブスの遺伝子を受け継ぎ、オリックスバファローズの監督として、そしてGMとして、福良がチーム作りを行った結果は、令和に入ってリーグ連覇の礎になっていると思います。

今回はイチローが考える最高の2番打者であり、守備の名手だった福良淳一の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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福良淳一について

まずは福良淳一の経歴を追ってみます。

1960年6月28日生まれ、宮崎県東臼杵郡北浦町(現延岡市)出身。延岡工業高校から日本国有鉄道に入社し、大分鉄道管理局(現JR九州)でプレーしました。1984年には新日鐵大分の補強選手として都市対抗野球に出場。この年のドラフト会議で阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)から6位指名を受け入団します。

ルーキーイヤーから1軍に上がり、初安打も記録。翌1986年には3割を越える打率を残し、レギュラーに定着します。1988年はリーグ3位となる打率を残し、ベストナインに輝き、オールスターにも出場。チームを代表する選手のひとりに成長します。

1989年にチームがオリックスブルーウェーブに変わると、新チーム第1号ホームランを記録しますが、クロスプレーで左肩を脱臼して戦線離脱。1990年はオープン戦でデッドボールを受け、右手首を骨折。更にシーズン中に同じところを骨折し、オフには手術をします。

その後は1993年から1994年にかけて、836回の連続守備機会無失策という二塁手としての日本記録を作るなど、守備の名手としても活躍しますが、1995年に右膝前十字靭帯を損傷。それに伴って出場数を減らし、1997年に引退します。

日本プロ野球通算13年間で、1116安打、50本塁打、106盗塁、打率.279。ベストナイン2回。

引退後はオリックス、北海道日本ハムファイターズでコーチをつとめ、2015年にオリックスの監督に就任。2018年まで4年間でAクラスはありませんでした。

監督通算4年間で、227勝。勝率.447。

その後は2019年にオリックスのGMに就任し、2021年と2022年のリーグ連覇を陰から支えました。

 

私が選ぶ、福良淳一の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「僕らが飽きてすぐやめるようなことを、イチローは何十年も続けてきたんです」

イチローは最高の2番打者と福良を高く評価しましたが、福良もまたイチローを称賛しています。もしホームランを狙ったら確実に30本は打てると言ったのは福良ですし、「結局のところ、彼が一番すごいのは、ひとつのことを根気強く続けるところですよ」と絶賛しています。

一方のイチローは福良を最高の2番に選んだことについて、「野球は頭を使うスポーツなんだということを、一緒に体現した良きパートナーですか」と問われ「まさしくそうです」と答えています。

イチローは例として、彼が塁に出て、完璧なスタートで盗塁する時、福良は2ストライクであっても絶対にバットを振らないと話しています。「今ってそれ、みんな振っていくんですよ。二塁確定なのにファウルしたり、フライを上げてアウトになったり」と現状を嘆き、「確率のゲームなんで野球って」と説明しました。

確かに得点圏にランナーが進むなら、この場合、見逃しの三振でも送りバントと同じ結果であり、ボール判定ならばチャンスが更に広がります。フライアウトはアウトが増えるだけでランナーも進めず最悪です。

もちろん福良の意図をイチローが理解しての発言ですが、それは福良の教育の賜物でした。

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【名言語録その2】

「強いチームであるためには大人の集団であることが一番大事やと思うんです。誰かに言われなくても、それぞれが考えながらプレーする」

福良が入団した当時のチームは阪急ブレーブスであり、かつてパリーグの強者だった時代を支えた山田久志、佐藤義則、福本豊、蓑田浩二らが残っていました。彼らはまさに大人の集団であり、勝ち方を知っている先達でした。福良は彼らの背中を見てプロの在り方を学んだのでしょう。

この福良の姿勢はオリックスとして初めてリーグ優勝を遂げるメンバーたちに影響を与えました。「たとえばイチローは自分のストライクゾーンに来たら何でも打って出るし、田口(壮)もどんどん打っていくタイプやから、そこは状況を考えようと。1点差で負けている終盤、イチローと田口のふたりが2球でツーアウトって、そんなんでどないするんやと」後のメジャーリーガーふたりに福良は言い聞かせたそうです。

「もちろん積極性がふたりの持ち味なんやけど、そこは持ち味で済ませたらアカン場面なんや」

選手同士がそんなことを言える雰囲気は、福良がその立場を変えても、発揮されたのです。

 

【名言語録その3】

「本当、自分の大切な人、例えば家族のためにプレーして欲しいんですよ」

福良は監督として選手たちに求めたのは「チームのためにということは考えないで、個人のために頑張ってくれ」ということでした。そして「そのために個々のレベルアップをして欲しい」と要望しました。

福良は大人の集団であることを更に一歩進め、利己の心と利他の心を融合させるという、まるで哲学者のようなことを推し進めたのです。

そんな福良を慕ってFA移籍を決めたのが小谷野栄一です。日本ハムファイターズ在籍時にパニック障害を患った小谷野。フェニックスリーグで二軍監督代行を務めていた福良は、その小谷野をあえて起用し「何分でもいいから。何かあったらすぐタイムをかけてあげるから」と背中を押しました。引退をも覚悟していた小谷野は守りながら倒れるようなこともあったそうですが、福良は「今日はよく頑張った。立てたね」と話しかけて交代させたそうです。

中嶋聡が監督も就任会見で、就任決定前に福良から電話で「ちょっと覚悟しとけよ」と言われたと苦笑いを浮かべ、吉田凌にはストッパーをやってみないかと語りかけ、「無理です」との返事に、「ホントかー」と笑っていたそうです。

福良の人柄を感じるエピソードですが、「選手が育っていくチーム、いい環境をつくっていきたい」というGM就任時のコメントが、本気なんだと伝わってきます。

 

名言からの学び

・一流は一流を知る

・大人な集団こそプロの在り方を示す

・利己と利他は必ずしも背反しない

 

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