荒木雅博の凄さが分かる名言・語録集!守備の名手の伝説エピソードから努力論まで
ピンチを一瞬にして終わらせ、味方は歓喜し、敵は意気消沈するダブルプレー。野球ならでは醍醐味のひとつと言えます。ダブルプレーにもっとも貢献するポジションが二遊間です。その二遊間コンビで史上最高と呼ばれているのが、井端弘和と「アライバ」コンビを組んだ荒木雅博です。
華麗なる守備というと見た目が派手なプレイばかり思い浮かべがちですが、「アライバ」コンビはゴロをさばいてアウトにした刺殺数、フライアウトやベースタッチでアウトにした捕殺数共に、プロ野球史上屈指の二遊間であり、華麗さと確実さを兼ね備えていました。
更に荒木は通算で2045本の安打を放っています。2000本安打達成者では最少となる通算34本塁打ながらも、378盗塁を記録するなど、その守備力のみならず攻撃面でも優れたリードオフマンとして活躍しました。
今回は6年連続でゴールデングラブ賞を獲得した守備の名手、荒木雅博の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。
荒木雅博について
まずは荒木雅博の経歴を追ってみます。
1977年9月13日生まれ、熊本県菊池郡菊陽町出身。中学生の頃から県下ではその名を知られ、熊本工業高校に進学。2年の春、選抜大会で甲子園に出場します。1995年のドラフト会議で1位指名を二度もくじで外した中日ドラゴンズが三度目の1位で指名し、入団しました。
ルーキーイヤーは2軍で鍛えられ、2年目となる1997年に1軍で初安打を放ち、12盗塁を記録。主に外野手として出場しました。1998年には2軍で二塁手として徹底的に鍛えられ、打撃も2000年には一時スイッチヒッターにチャレンジしました。2001年には打撃力が向上し、夏にはリードオフマンとして定着。レギュラーを獲得します。
2002年と2003年は課題だった打撃面で低迷。しかし監督だった落合博満のアドバイスもあり、2004年には1シーズン4安打以上を9試合というプロ野球記録を作り、守備では井端弘和と共に「アライバ」コンビとして鉄壁の二遊間を形成しました。
飛躍の年となった2004年から2009年まで二塁手として6年連続でゴールデングラブ賞を獲得し、2007年には盗塁王にも輝きます。2009年には井端と荒木のポジションを交換する形でコバートが進められましたが、互いの故障もあり断念。翌2010年に本格的なコンバートととなりましたが、2012年には元のポジションに戻りました。
その後は相次ぐ故障と不振に苦しみながらも、2017年に2000本安打を達成。2018年には内野守備走塁コーチを兼任しますが、シーズン終了後に引退しました。
プロ通算23年間で2045安打、34本塁打、378盗塁、打率.268。盗塁王1回、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞6回。
引退後は引き続きドラゴンズのコーチとして、チームに貢献しています。
私が選ぶ、荒木雅博の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「一番大きかったのは甘えを削ぎ落したこと」
ドラゴンズの監督だった落合博満が「俺を一番困らせた」という相手が荒木でした。「自分のことを過大評価する奴が多いこの世界で、あいつは過小評価しているんだから。『お前、自分がどんだけの選手かわかっているのか。この俺が認めてるんだぞ』って言ってもダメなんだ」と話しています。
その根幹には父親の影響があるのかもしれません。中学時代、熊本県内では高い評価を受けていた荒木には、野球強豪校から特待生の話がいくつもありました。中には荒木が志望していた高校もあったそうです。しかし彼の父親は高校はスポーツをするところではなく勉強をするところだからと、それらの誘いを断りました。ですが荒木はしっかり学力で志望校に入学したのです。
そんな妥協しない性格の荒木でも、野球をなめてしまったことが2度あるそうです。1997年と2001年です。前者は高卒2年目にしては活躍したといえる成績でした。でもそれが「レギュラー獲得を遅らせた」と荒木は言います。「弱いチームで出場機会を与えられただけなのに、自分で掴んだと勘違いした」というのが正解でした。
2003年の秋季キャンプで落合の猛ノックを受け、荒木は「甘えを削ぎ落した」と言います。そして「野球に真摯に向き合い、レベルを上げ、勝敗を背負う。味方の選手、その家族、裏方さん、関わる人すべての生活を意識できてこそ真のレギュラー」という思いに至ったのです。
【名言語録その2】
「言葉をかわさなくても何を考えているのか、わかりますから」
荒木といえば井端と二遊間を組み、「アライバ」コンビとして、息の合った守備連携で魅了しました。2005年には日本プロ野球史上、二遊間として最多となるシーズン1590の刺殺+捕殺数を記録し、2009年にも史上3位となる1503の刺殺+捕殺をあげています。二遊間の守備率でも2004年に史上3位となる.9929という数字を残していますが、1位と2位の記録とでは守備機会が500回ほど上回っており、その守備範囲やカバー力がいかに優れていたかがよくわかります。
その連携について、荒木は「そこに井端さんがいるってわかっていますから」と言い、井端は「待っていたら来るのがわかる」と話しています。まさに以心伝心といえる関係です。二人は同じ時期に選手寮を退寮しましたが、引っ越し先は同じマンションでした。井端によると荒木は退寮が迫っているのに引っ越し先も決めずにいて、井端が決めていたマンションを聞いて、空きがあったのでそこに決めたそうです。井端いわく「荒木は優柔不断というか、何もしない男だった」そうです。
井端は二人の関係について「夫婦って付き合っている時は会話があるし楽しいけれど、夫婦になると自然に会話が減っていくものじゃないですか。それでもお互いに何を考えていて、どうして欲しいかはなんとなく通じ合っているもの。夫の仕草ひとつで、妻がお茶を出す。僕と荒木はそれに近い関係だったような気がします」と語っています。
だからといって、二人は妥協し、慣れ合うことはなく、荒木は「この人が練習しているうちはまだ僕もやめない。横に井端さんがいたことは、僕の成長に欠かせなかったんです」と明らかにライバル視していました。
荒木は引退会見の時、「もっとも印象に残る走塁」という問いに対し、2011年9月23日ヤクルト戦の走塁をあげています。同点で迎えた8回、荒木が二塁打で出塁し、バッターは井端。ヤクルトの外野陣は極端な前進守備でランナーをホームへ返さない態勢。そこで井端は荒木がホームまで帰ってこられる打球を考え、意図的に狭い内野と外野の間に落としました。井端は「後ははあいつならなんとかしてくれる」と思い、荒木は「井端さんはああいう時に必ずやってくれる人」と信じて、迷わずホームに突っ込んで勝ち越しを決めました。
まさに以心伝心のプレーであり、荒木いわく「井端さんとの最高傑作」でした。
【名言語録その3】
「グラウンドにいない日々が耐えられない」
引退してからも、手術をして2週間の入院を言い渡された荒木は、何とか1週間で退院したいと申し出ました。やむを得ず医者はそれを許可しましたが、ノックなどは1ヶ月後にと言われたのにも関わらず、退院して1週間後にはノックをしていました。
現役時代にも肉離れや骨折などをしても、荒木は「試合に出たいから」と指定された再診日に行かないことがよくあったそうです。
「現役時代からずっとグラウンドにいたので、グラウンドにいない日々が耐えられない」
それが荒木であり、究極の努力だと言えます。2000本安打達成者の中で、通算34本というもっとも非力な打者が成功を収めたのは、努力し続けられる才能があったからなのでしょう。
名言からの学び
・自分に対する過小評価は成長の糧にもなる
・最高のパートナーが最高のライバルである
・努力の才能とは、それをやらないと耐えられなくなることである
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