近藤和彦の凄さが分かる名言・語録集!走・攻・守のすべてに優れた職人の伝説エピソードから努力論まで
王貞治の一本足打法、イチローの振り子打法、梨田昌孝のこんにゃく打法、八重樫幸雄の八重樫打法など、プロ野球界では個性的な打撃フォームの選手がたくさんいます。しかしその特異さということで、もっとも目を引くのは天秤棒打法でしょう。この他の者には真似できない唯一無二の打法を編み出したのが、近藤和彦です。
剣道の面打ちをヒントに考え出したという天秤棒打法。頭上に天秤棒のように寝かせたバットを高々と掲げ、捕手側の左手は添えるだけ。投球に合わせ一閃する姿は、まさに技を極めた剣豪のようでした。
ヒットメーカーとして、シーズン打率3割以上を6回記録していますが、打率リーグ2位が4回と打撃タイトルには縁が無く、特に4回中2回は同期の長嶋茂雄の後塵を拝しました。ON時代と重なった者たちの因果と言えるかもしれません。
今回は天秤棒打法のヒットメーカー近藤和彦の凄さが分かる名言や語録を紐解き、走・攻・守のすべてに優れた職人の伝説エピソードから努力論にまで迫ります。
近藤和彦について
まずは近藤和彦の経歴を追ってみます。
1936年3月2日生まれ、大阪府高槻市出身。中学1年から野球を始め、右ひざに水がたまる持病があり、ひざに良さそうという母親の勧めで剣道にも取組みました。平安高校に進学し、野球部に入りましたが代打専門。3年春の選抜大会で甲子園に出場するもやはり代打のみでした。卒業後は明治大学に入学。2年次にレギュラーとなり、春季リーグ、全日本大学野球選手権大会で優勝。大学4年間でベストナインに3度選ばれました。
1958年に大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)に入団。ルーキーイヤーからレギュラーを獲得し、3番打者として活躍します。1960年には長嶋茂雄に次ぐリーグ2位の打率を残し、三原マジックとして知られる三原脩監督のもと、球団初のリーグ優勝、そして日本一に貢献します。
1961年には2年連続で長嶋に次ぐ打率2位でしたが、足の遅さから鈍行列車になぞらえ「ドンコ」とあだ名されていた近藤が、なんと盗塁王のタイトルを獲得。1962年は3年連続でリーグ打率2位。1967年にも打率2位を記録します。しかし1970年から1塁手に専念し、更に松原誠の1塁コンバートもあり、出場機会を減らします。1973年に近鉄バッファローズ(現オリックス・バファローズ)にトレードとなりますが、シーズン後に引退。
日本プロ野球通算16年間で、1736安打、109本塁打、159盗塁、打率.285。盗塁王1回、最多安打1回、ベストナイン7回。
引退後はホエールズのコーチ、日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)のコーチ、2軍監督、韓国プロ野球のハンファ・イーグルスのコーチを歴任。解説者も務めましたが、2002年6月に惜しまれつつ亡くなりました。
私が選ぶ、近藤和彦の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「代打専門で、ポジションはありません」
明治大学に進学し、野球部に入部した近藤ですが、高校時代のポジションを聞かれての答えです。高校では投手をやりたかったものの、結局は代打専門。甲子園も代打で1打席のみの出場でした。当時はプロ野球以上に人気のあった東京6大学野球ですから、高校で代打専門だった選手ならば気後れしてしまいそうなものです。しかし近藤は見事にトップ選手の座をつかみとりました。
近藤が大学でレギュラーとなった2年生の頃、4年生には後にプロでも活躍する秋山登と土井淳のバッテリーをはじめ、プロ選手になるメンバーが多くそろっていました。立教大学には長嶋茂雄に杉浦忠、慶應大学には佐々木信也、早稲田大学には森徹といったレベルの高い選手がおり、近藤も多くの刺激を受けた筈です。そして秋山、土井らと同じホエールズに入団し、彼らがチーム初の日本一を勝ち取る原動力になりました。
チームの主力選手として活躍した近藤ですが、入団早々の春季キャンプ中、宿舎で素振りをしていると、通りかかった「じゃじゃ馬」こと青田昇にいきなり「相撲とろうや」と声をかけられました。青田はすでに34歳、身長も近藤の方が15センチ高いのに、あっさり投げ飛ばされてしまいました。
青田は「大下は手首が無類に強かった。与那嶺もアメリカンフットボールをやっていたから凄い筋力を持っていた。お前みたいな非力な奴がそんな構えじゃ、プロのボールに負けるぞ。もっと速い球をどう打つか工夫してみろよ」と「青バット」大下弘やウィリー与那嶺というスター選手と比較して言ったそうです。その3日後に「天秤棒打法」が生まれたのです。
【名言語録その2】
「それが妙な話、盗塁王なんだ」
近藤の代名詞となる「天秤棒打法」は青田のアドバイスを受けて、試行錯誤し、3日後に生まれました。中学時代にひざが悪かった近藤ですが、面を打つ前後運動がひざに良いと考えた母親に勧められ、剣道にも取組みました。その面打ちを何気なくバットでやってみたところ、閃くものがあり、剣道の縦振りを野球の水平なスイングに生かす工夫から「天秤棒打法」が出来たのだそうです。
「天秤棒打法」でヒットを量産した近藤ですが、セリーグには同期のスーパースター長嶋茂雄がおり、3年連続打率リーグ2位など、通算4度も打率2位でとどまり、そのうち2度は長嶋が首位打者に輝いています。
メジャータイトルは無縁のままかと思われた近藤ですが、1961年に念願のタイトルを獲得します。それが盗塁王です。なぜ「それが妙な話」なのかといえば、近藤の大学時代のあだ名は「ドンコ」でした。それははじめ近藤を逆さに読んだ「ウドンコ」だったものが、彼のあまりの足の遅さに鈍行列車をかけて「ドンコ」になったものです。鈍足で知られた近藤が盗塁王というのは、本人にとっても「妙な話」と照れ隠しをするくらいのことでした。
まだクイック投法が一般的ではない時代とはいえ、鈍足が盗塁王に輝くというのは、投手の癖や投球パターンを分析していた結果であり、近藤の観察眼と判断力が優れていたことの証明でもあります。苦手を克服するというよりも、得意なことでカバーし、走・攻・守に優れた成果を残したのだと言えるでしょう。
【名言語録その3】
「涙なんですよ」
引退の理由について聞かれた近藤の答えです。「投手の動作を20秒、25秒と瞬きしないで見ていると、涙で投手が見えなくなる」のが打撃に影響したそうです。全盛期には90秒間、瞬きをしないで耐えられたと言います。現在のメジャーリーグのようにピッチクロックのルールがあれば、もう少しプレーできたかもしれません。
そのバットコントロールの良さから、4年間バットを1本も折らなかったという近藤。イチローや落合博満もバットを折らないことで有名でしたが、せいぜい1シーズンの話です。「天秤棒打法」は単にアイディアだけではなく、類まれなバットコントロールと動体視力に支えられたものであり、ワンアンドオンリーの技術だったのです。
名言からの学び
・経験やアドバイスは決して無駄にならない
・得意なことだけで成果があげられるわけではない
・他には真似できない唯一無二の技術がある
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