ロベルト・ペタジーニの凄さが分かる名言・語録集!天才スラッガーの伝説エピソードから努力論まで
「年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せ」ということわざがあります。しっかりした年上の女房を娶ると家は安泰だということなのでしょうが、そのためかプロ野球選手も年上の女性と結ばれるケースが多いようです。野村克也、落合博満、原辰徳、江川卓、古田敦也、石井一久、イチロー、松坂大輔、田中将大、前田健太など、そうそうたる顔ぶれが年上の女性と結婚しています。その中でも年齢差がなんと25歳という年上女性と結婚したのがロベルト・ペタジーニです。
その女性はペタジーニの友人の母親で、出会いは彼が小学生の時だったというから驚きです。その支えもあって、ペタジーニは来日助っ人として歴代11位となる233本塁打、13位となる635打点を記録しました。
歴史に「if」はつきものですが、ペタジーニがヤクルト・スワローズと契約する2年前に、ニューヨーク・メッツのボビー・バレンタイン監督が、オリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)にペタジーニと野村貴仁のトレードを申し出て、仰木彬監督も乗り気だったという裏話があります。もしペタジーニがもう2年前にオリックスに入団していたら、いろいろと違った球史になっていたと思います。
今回は25歳年上女房と共に活躍したロベルト・ペタジーニの凄さが分かる名言や語録を紐解き、天才スラッガーの伝説エピソードから努力論にまで迫ります。
ロベルト・ペタジーニについて
まずはロベルト・ペタジーニの経歴を追ってみます。
本名ロベルト・アントニオ・ペタジーニ・エルナンデス、1971年6月2日生まれ、ベネズエラのヌエバ・エスパルダ州ポルラマル出身。1990年にベネズエラのレオネス・デル・カラカスのチームでプロデビュー。1994年、アマチュアFAでヒューストン・アストロズと契約。初年度はルーキーレベルのガルフコーストリーグ・アストロズでプレーし、メジャーリーグに昇格したものの無安打に終わります。1995年はサンディエゴ・パドレス、1996年から2年間はニューヨーク・メッツ、1998年にシンシナティ・レッズに所属しますが、メジャー定着はできませんでした。
1998年のオフにヤクルト・スワローズ(現東京ヤクルト・スワローズ)と契約。1999年、打率は3割を越え、本塁打44本で本塁打王に輝き、最高出塁率、長打率でもリーグ1位という活躍を見せました。この年から5年連続3割30本塁打以上を記録し、2001年にはリーグMVP、本塁打王、打点王に輝きます。
しかしチーム方針への不満や高年俸から、2003年からは読売ジャイアンツに移籍し、2年続けて3割30本塁打前後の打撃を見せます。ただ膝の故障もあり、フルシーズンの活躍は難しく、跳ねあがる高年俸もあって2004年限りで退団します。
2005年はボストン・レッドソックス、2006年はシアトル・マリナーズに所属しますが、活躍できずに引退。しかし2008年にメキシカンリーグで現役復帰。2008年から2年間韓国のLGツインズに所属。2010年には福岡ソフトバンク・ホークスと契約し、39歳で6年ぶりに日本球界に復帰。チームのリーグ優勝に貢献しますが、衰えは隠せず、再び引退しました。
メジャーリーグ通算7年間で、83安打、12本塁打、打率.227。
日本プロ野球通算7年間で、882安打、233本塁打、打率.312。MVP1回、本塁打王2回、打点王1回。
引退後、離婚の噂もありましたが、実際は25歳年上の奥さんと相変わらず仲睦まじいようです。
私が選ぶ、ロベルト・ペタジーニの凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「適応しなくちゃいけないという気持ちがあったから、あまり大変じゃなかったね」
日本に来てすぐはなかなかアジャストできなかったペタジーニですが、5月の声を聞く頃には日本の野球に適応し、あっという間に結果を出して行きました。「1年目、日本に着いたときから、ここはベネズエラでもアメリカでもない、日本だと、気持ちを切り替えた」というペタジーニ。
彼の球歴はベネズエラで始まり、アメリカでは7年で6チームに所属し、更にメジャーとマイナーを行き来するジャーニーマンでした。日本でも3チームに所属し、韓国やメキシコでもプレーしたのですから、適応能力が高くなければ、続けられなかったことでしょう。
メジャーでは特筆すべき成績は残せませんでしたが、マイナーでは選球眼の良さもあり、高い出塁率を残しています。日本でもその能力は生かされ、四球の多さが高打率を残す理由のひとつでもありました。
ジャーニーマンとして環境への適応能力、選球眼の良さによる野球への適応能力。それらの適応力が、ペタジーニの強みでもあったのだと言えます。
【名言語録その2】
「ひとりひとりの仕事の役割があると思うし、得点圏にランナーがいれば、それをかえすのが僕の仕事」
1999年のペタジーニはとにかくジャイアンツ戦に強く、対戦チーム別では最多の11本塁打を放ち、9月の3連戦では11打数9安打11打点という大暴れで、チーム3連勝の立役者となりました。シーズン終盤での3タテはジャイアンツの勢いを削ぐのに十分で、ジャイアンツが優勝を逃す一因になったと言えます。
「ホームランを狙っている、狙っていないかは別にして、バッターボックスでは常にボールをよく見て、強くたたくことだけを考えているよ」
そんな強打のペタジーニに対して、対戦チームは抑えるのに苦心し、必然的に厳しいインコース攻めも増えました。メジャーリーグでは味方選手への死球に対して、激しい抗議や時には報復のような行為もありますが、日本の特にスワローズはあまり露骨な報復はしないチームです。
2002年の阪神戦で厳しい攻めを受けたペタジーニは、それに強く抗議しないチームに業を煮やし、攻守交替の時にそのままダグアウトからロッカールームに向い、荷物をまとめて帰ってしまいました。これがジャイアンツ移籍の布石になったとも言われています。
もちろんプロとして褒められた行為ではありませんが、メジャーでは過去に頭部死球で亡くなった選手もいますし、日本でも高校野球では死亡例もあり、田淵幸一への頭部死球でヘルメット耳当てが出来、チャーリー・マニュエルは顎を砕かれて、アメリカンフットボールのようなヘルメットをかぶった歴史もあります。
メジャーか日本かということではなく、プロの技を見せる世界ですから、故意は論外としても、それぞれのやるべき仕事をするのはもちろんですし、チームメイトや対戦相手もしっかりリスペクトすべきだと改めて思います。
【名言語録その3】
「パワーは神から受けたもので、愛は妻からもらったもの」
ペタジーニといえば愛妻家として知られています。友たちの母親だった25歳年上のオルガ夫人ですが、スワローズ在籍時、ホームで試合がある日は奥さんがクラブハウスで待っており、試合が終わったペタジーニをキスで出迎え、2人で仲良く散歩しながら帰ります。遠征の時はチームメイトとは別行動で、奥さんと共に行動していました。当時の通訳によれば「ペタにとっては1に神、2にオルガ夫人、3に野球の位置づけでしたね」という溺愛ぶりでした。
日本の女性はどうかと聞かれても「マイ・ワイフ・オンリー」と答えたペタジーニですが、ある時期、インターネット上に彼が女子大学生と不倫し、奥さんと別れたという噂が流れました。しかし取材に訪れた日本のテレビ局スタッフの前には、変わらぬ仲の良さを見せつけるように、夫妻で姿を見せたそうです。
変わらずに思い続けられる力は、心や信念の強さであり、成功の秘訣でもあったのではないでしょうか。
名言からの学び
・さまざまな適応力が、力を発揮するための素地となる
・リスペクトもまた仕事の一部である
・心や信念の強さが成功に導く
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