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江藤智の凄さが分かる名言・語録集!いい人でホームラン王の伝説エピソードから努力論まで


日本のプロ野球独自の制度に、FA移籍の選手を獲得する際に発生する人的補償というものがあります。一定の年俸以上の選手がFA移籍する場合、放出するチームは移籍先のチームによるプロテクトから外れている選手を獲得できるというものです。その「FA移籍」と「人的補償移籍」の両方を経験した珍しい選手が江藤智です。

広島カープは江藤以来、金本知憲、新井貴浩、丸佳浩と、主力打者が移籍するケースが多いチームです。チーム予算などいろいろ事情はあるのですが、いずれも移籍先でも活躍し、チームで重きをなす傾向があるのは、カープの育成力の賜物でしょう。

新しいチームに溶け込むのには、実力はもちろんですが、その人間性も大きく関わってくると思います。特に晩年には、ホームラン王を2度も獲得した大選手ながら、若い選手の輪にも入り、チームの潤滑剤にもなっていた江藤の人柄は、ベテランのあるべきひとつの姿だと言えます。

今回は2度のホームラン王となった江藤智の凄さが分かる名言や語録を紐解き、いい人として知られる伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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江藤智について

まずは江藤智の経歴を追ってみます。

1970年4月15日生まれ、東京都東大和市出身。関東高校(現聖徳学園高校)では通算61本塁打を記録するなど、強打の捕手として知られ、1988年のドラフト会議で広島東洋カープから5位指名を受けて入団

2年目の1990年に1軍初出場を果たし、38試合で5本塁打を放ち、長打力をアピールします。1991年には肩の故障もあり、本格的に内野手へコンバートとなり、シーズン2桁本塁打を記録。以降、13年間連続で2桁本塁打を続けます。1993年にレギュラーを獲得し、初めて規定打席に到達。同時に34本塁打で本塁打王に輝きます。1994年には8月に月間16本塁打の日本タイ記録に並び、シーズン打率.321を残しました。

1995年に2度目の本塁打王と、初の打点王の2冠に輝き、1996年も松井秀喜や山崎武司らと本塁打王争いを演じます。しかし1997年に本塁打は28本放つも打率が.252と奮わず、翌1998年の人も同じような成績でした。1999年には復調し、1試合10打点というセリーグ隊記録をマークするなどしましたが、オフにFA権を行使。読売ジャイアンツに移籍します。

2000年、リーグ最多の勝利打点をあげ、1996年以来の30本以上の本塁打を記録し、チームの日本一に貢献。翌2001年も30本塁打を放ちました。ところが2002年から不振に陥り、代打での起用が増え、2005年のオフにはジャイアンツにFA移籍を決めた豊田清の人的補償として西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)に移籍することになります。これは日本初のFA移籍した選手がFA移籍の人的補償で移籍するケースとなりました。

2006年、通算350号本塁打や1500安打を記録。カープ時代以来の4番に座るなど、ベテランとして若手に切り替わりつつある時期のライオンズを支え、その後も指名打者や代打で活躍。2008年にはチーム日本一をベテランとして支えました。そして2009年オフに引退します。

現役通算21年間で、通算1559安打、364本塁打、打率.268。本塁打王2回、打点王1回、ベストナイン7回、ゴールデングラブ賞1回。

引退後はジャイアンツのコーチや3軍監督を2018年まで務めました。

 

私が選ぶ、江藤智の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「野球が好きじゃなきゃこんなに長く出来ないですもんね、まずね」

1970年生まれの江藤ですが、彼の父親はこの年代の人にはありがちなスパルタ教育だったそうです。鉄拳制裁は当たり前で、虫の居所が悪いとテーブルの上のものをひっくり返すといったこともあったとか。ただし野球に関しては小言はあっても、殴られたことはないと語っています。

また江藤をスカウトした苑田聡彦によれば、江藤が在籍していた関東高校は、ドラフト指名の駆け引きに振り回されないようにと慎重であり、ついには苑田が江藤を必ず指名するという念書を校長に渡すほど、江藤は守られていたそうです。

 

「広島時代はホント苦しいことばっかだったし、ジャイアンツの時もまあそうですね」

それでも「小っちゃい頃から野球に魅了され」て、「野球が好き」だから「苦しい練習も出来るし、長くやってられる」と話す江藤。

そこには厳しくも見守ってくれた父親や、彼の未来を見据えて守った校長先生などいろいろな人の存在があったからなのでしょう。

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【名言語録その2】

「あらゆる面で特別な球団だとは思うね。心の中でいろいろ学ばせてもらった」

江藤はFA移籍したジャイアンツについて「特別な球団」だと語っています。特にカープという地方色が強く、身内意識の高い球団からの移籍でしたから、随分とチームカラーが違っていた筈です。

カープでもライオンズでも4番に座ったことがある江藤ですが、ジャイアンツでは4番を任されたことはありません。同時期に松井秀喜という生え抜きのスーパースターがいたことが最大の理由でしょうが、2度の本塁打王に輝いていた江藤にとって思うところがあったのではないでしょうか。

更に江藤の移籍は、プロ野球史において大きな役目を果たしました。監督を勤めていた長嶋茂雄が背番号33を江藤に譲ることを明言し、その結果、永久欠番となっていた背番号3を再び背負うことになったからです。長嶋が引退した年に4歳の江藤にとっては余波でしょうが、プロ野球のオールドファンにとっては一大事でした。

その長嶋からの誘い文句は「荒波に向ってきなさい」だった江藤。「本当に荒波だった。揉まれている最中はきつかった」そうですが、自分の選択について「全然後悔していない」と話しています。

 

「タラレバはあるけれど、人生は1つしか選べないから」

そのような「荒波」を経験することは、江藤にとって間違いなくさまざまな学びを得る機会になったことでしょう。

 

【名言語録その3】

「結局この世界はやったもん勝ちだよ」

文化放送のライオンズナイターで「微笑みのバズーカ」と名付けられるほど、いつも笑顔が絶えない江藤。その人柄の良さはチームメイトからもファンからも愛されました。

ライオンズ時代の2008年に日本一となった時、渡辺久信監督は江藤について「若いチームを支えた陰のMVP」と評価しました。

年上の渡辺監督はもちろんのこと、父親ほど年齢の違う黒江透修コーチからも「江藤さん」と呼ばれ、愛された江藤。大久保博元コーチが試合中に若手選手を怒鳴ると、江藤がベンチの隅で「デーブさんが言いたいのはこういうことだぞ」とフォローしていたそうです。

それはカープ時代に鬼軍曹と呼ばれた大下剛史コーチの厳しい指導の下、がむしゃらにやったことががベースにあったのでしょう。そのお陰で「今の僕があるのだと思う」とライオンズ時代に語っています。

どうあれ「やったもの勝ち」だから、「素直に聞けない時ってある」若手に「違う目線からちょっと言ってあげる」という江藤の姿勢は、指導者に向いているなと思います。

再び後進を育てるためにユニフォームを着て欲しいものです。

 

名言からの学び

・好きになるには周囲のサポートも大切である。

・人生の荒波は学びでもある。

・どんなこともやらない者より、やった者が勝つ。

 

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