定岡正二の凄さが分かる名言・語録集!元甲子園のアイドルの伝説エピソードから人生哲学まで
『甲子園のアイドル』として、普段は野球に興味がない女の子たちまで夢中にさせた最初の存在は、昭和44年夏に決勝で再試合の末に敗れた三沢高校の太田幸司だとされています。その5年後に再び女の子たちを熱狂させたのが、鹿児島実業高校の定岡正二です。
引退後はとんねるずのバラエティ番組などで活躍したタレントとして知られていますが、高校生の頃には1日に100通ものファンレターが送られてきたアイドルでした。けれどその本質は兄の智秋、弟の徹久もプロ入りし、『定岡三兄弟』として知られ、甥の卓磨もプロ入りするなど、野球一家の猛者です。
プロ通算51勝をあげた定岡ですが、トレードを拒否し、29歳で余力を残しての引退劇には賛否両論がありました。元祖アイドルの太田が通算58勝、荒木大輔が39勝、斎藤佑樹が2020年までで15勝というのを考えると、アイドル系最高の記録も可能だったかもしれません。
今回は元甲子園のアイドル定岡正二の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。
定岡正二について
まずは定岡正二の経歴を追ってみます。
1956年11月29日生まれ、鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島実業高校では2年連続夏の選手権大会に出場。3年の時には原辰徳がいた東海大相模を下し、ベスト4に入り、そのルックスから全国の女子中高生に大人気となりました。1974年のドラフト1位で読売ジャイアンツの指名を受け入団します。
3年目の1977年に1軍初登板を果たしますが、なかなか活躍できず、1980年に初勝利をあげると一気に9勝し、ローテーションの一角に加わるようになります。1981年に初の2桁勝利をあげ、チームの日本一に貢献。1982年は江川卓、西本聖と共に先発三本柱として活躍。2年連続2桁となる15勝を記録しました。
1983年は故障もあって7勝止まりとなり、翌1984年そして1985年も復調せず、リリーフも経験。1985年オフに近鉄バファローズへのトレードが決定したものの、それを拒否し引退。
プロ通算11年間で51勝3セーブ、防御率3.83。
引退後は主にタレントとして活躍しています。
私が選ぶ、定岡正二の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「どこかで兄をライバルと思うようになってきていた」
1974年の夏、定岡が鹿児島実業高校のエースとして、原貢監督が率い、原辰徳がいる東海大相模高校と繰り広げた激戦は、今でも高校野球ファンの間では語り草になっています。しかし高校進学の時、定岡は鹿児島実業高校を避けたい気持ちもあったそうです。そこは兄である智秋の母校でもあったからです。
兄の智秋は南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)で通算785安打、88本塁打の記録を残し、強肩で知られた遊撃手です。弟から見た兄は高く大きな壁であったようです。けれども兄が成し得なかった甲子園出場を果たすと、兄を壁ではなくライバルとして思えるようになりました。
東海大相模との戦いでは「疲れもおそれも何もない。楽しくて仕方がない。今でいうゾーンに入ったんでしょうね。その後、プロ野球に入ってもああいう感覚はないです」というピッチングで見事に雨の延長戦を制してベスト4に進出します。
「いろんなファンが涙なのか、汗なのか、雨なのか、顔をぐちゃぐちゃにしてネットの方へ来るんですよ。ああ、人ってこんなに喜べるんだ。そのことにすごく感動しました」
その熱い青春の感動こそが定岡の原点なのでしょう。
【名言語録その2】
「僕にとっては、青春そのものだった」
「巨人とは何だったのか?」という問に対する定岡の答えです。定岡は29歳の時にトレードを言い渡され、拒絶します。結果としてトレードは破談となりますが、本人はそれでジャイアンツに残れると思っていたそうです。しかし球団側の判断はトレードか戦力外でした。成績は下降気味だったとはいえ、実質6年間で51勝している定岡を戦力外というのはおそらくペナルティの意味合いもあったのだろうと思います。
定岡は知人から、巨人のまま辞めた方がいい、というアドバイスをもらったそうです。当時のパリーグの人気を考えれば、わからなくもない提案ですが、プロとしてもう少し現役にこだわる選択肢もあっただろうと思います。
ただ定岡によれば「もう知らない球団に行って、イチからやり直すだけの気力も、体力もなかった」ようです。悩まされていた右ひじ痛が酷く、引退も考えていた時期のトレード話だったため拒否し、引退も決めたそうです。
まさに18歳から29歳までの、まさに青春期のすべてをジャイアンツで燃やし尽くしたと言えます。
【名言語録その3】
「44年ぶりにマウンドに立てて、幸せでした。プロでも投げていますが、高校のときに甲子園に出たときの思い出がパッとよみがえりました。今日は甲子園に力をもらいました」
2018年、第100回を迎えた甲子園夏の選手権大会で、レジェンド始球式として定岡がマウンドにあがりました。このレジェンド始球式では松井秀喜、牛島和彦、水野雄仁、中西清起、桑田真澄ら、まさに甲子園を沸かせた者たちが日替わりで大役を務めました。
定岡にとってジャイアンツは「青春そのものだった」ようですが、定岡ファンにとっては甲子園での定岡が青春そのものだった人も多い筈です。プロでも一時は3本柱の1人として活躍しましたが、甲子園で巻き起こしたほどのインパクトはなかったかもしれません。
V9時代が終わり、1979年にはリーグ5位に沈んだジャイアンツは、長嶋茂雄監督のもと、静岡の伊東で若手中心の秋季キャンプを行いました。伝説に残る「地獄の伊東キャンプ」です。そこから中畑清や松本匡史、篠塚利夫、江川卓、西本聖、鹿取義隆ら、後の主力メンバーが育っていきくきっかけになったと言われています。
しかしそのキャンプに定岡は故障のため参加しませんでした。「年が明けて、自主トレで伊東キャンプのメンバーに会うと、みんな充実の表情をしていてね。中畑清さんなんか『やり遂げたぞ』と胸を張らんばかりだよ。僕は後ろめたいというか、なんだか仲間外れのような感じ。みんながまぶしかった。焦りを感じたよ」
定岡が最後までジャイアンツにこだわった理由のひとつが、この伊東キャンプ不参加の負い目だったのかもしれません。もしこのキャンプに参加し、熱い青春の一端を体験していたら、定岡の考えがどう変わったのか、想像してしまいます。
名言からの学び
・身近なライバルが自分の力になる。
・幕引きを決めるのは自分自身である。
・成したことよりも、成さなかったことが、心の棘になる。
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