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平野恵一の凄さが分かる名言・語録集!カムバック賞も受賞した名手の伝説エピソードから努力論まで


スポーツの世界ではファインプレーとケガは表裏一体です。プロ野球でもニューヨークヤンキース時代にスライディングキャッチを試みた松井秀喜が骨折したシーンは衝撃的でしたし、かつて読売ジャイアンツで選手同士の激突により吉村禎章が大ケガを負ったのも忘れられません。激突といえばファウルフライを追ってフェンスにぶつかり、選手生命も危ぶまれたところから復活したのが平野恵一です。

内外野を守れるユーティリティーぶりと、ダイビングキャッチやヘッドスライディングなど、ケガを恐れない気迫あふれるプレーでファンを魅了し、チームを鼓舞した平野。犠打も上手く、まさに流れを作り、勢いをもたらすプレーを見せてくれる選手でした。

平野は2006年にフェンスに激突して、胸部や腰や手首など何か所もの大ケガを負い、そこからの復活劇は、2005年以降、わずかに5人しか受賞者のいないカムバック賞に選ばれるなど、多くの感動と勇気をファンや関係者に与えました。

今回はカムバック賞も受賞した名手平野恵一の凄さが分かる名言や語録を紐解き、伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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平野恵一について

まずは平野恵一の経歴を追ってみます。

1979年4月7日生まれ、神奈川県川崎市多摩区出身。中学生の頃は野球のリトルリーグで活躍するだけでなく、サッカーでもレギュラーを獲得するほど優れた運動能力を見せていました。桐蔭学園高校では3年の時に夏の選手権大会で甲子園に出場。主将としてチームを引っ張りました。卒業後は東海大学に進学し、レギュラー遊撃手として全日本大学野球選手権大会で優勝。2001年のドラフト自由獲得枠でオリックスブルーウェーブ(現オリックスバファローズ)に入団します。

2002年のルーキーイヤーに初安打を放ち、2004年に二塁手としてレギュラーを獲得。規定打席数に到達します。2005年に近鉄バファローズとの合併もあり、外野手としても出場し、チームトップとなる打率.285を記録します。

2006年の5月6日に、ファールフライを追って1塁側フェンスに激突。胸部や腰や手首などに大ケガを負います。翌年、1軍復帰はしたものの復調せず、シーズン終了後に濱中治らとのトレードで阪神タイガースに移籍しました。

2008年は堅実な守備力とバントなどユーティリティーぶりを発揮し、2番に定着。3年ぶりに規定打席にも達し、カムバック賞を獲得2010年にはシーズン打率.350を記録し、ベストナインとゴールデングラブ賞に輝きます。翌年にも2年連続でベストナインとゴールデングラブ賞を取りました。

2012年に打撃不振に陥り、シーズン終了後に国内FA権を行使して、古巣のオリックスバファローズに復帰。度重なる故障により出場機会は減りましたが、2014年には史上16人目となる250犠打を達成。2015年シーズン終了後に引退。

現役通算14年間で通算1184安打、18本塁打、60盗塁、打率.279。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞2回。

引退後はタイガースのコーチとして活躍しています。

 

私が選ぶ、平野恵一の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「だって悔しいじゃん」

タイガースで2度のベストナインを獲得した平野ですが、移籍当初は相手が左投手の際にはスタメンを外れることがありました。しかし限られた左投手相手に高打率をマークし、相手投手に関係なく使われるレギュラーになりました。左投手を打つ秘訣について聞かれると、上記のように答えました。

プロ野球選手の平均身長は約181センチですから、169センチしかない平野がレギュラーを張るには、なかなかの苦労があったでしょう。練習熱心で知られた平野ですが、そこにはレギュラーで居続けるための戦いがありました。

 

「こんなにすごい選手たちがいる中で、首脳陣の方々が自分を使ってくれるのかというのを常に考えて、人が何て言おうと、自分は違うんだと。まず何を求められているか、何をしなきゃいけないかを見極めるのが大変でしたね。毎年毎年、監督もたくさん代わったし。これはすごく難しいことなんですよ、実は。毎年のように監督が代わるなかでレギュラーを取り続けるのは、なかなか難しい」

平野は現役14年間で11人もの監督の下でプレーしています。監督の構想により、二塁、三塁、遊撃、外野とさまざまなポジションを守り、さまざまな打順を経験した平野ですが、それにアジャストし続けるだけではなく、左投手に対応してみせるなど更に進化することで、レギュラーに座り続けました。

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【名言語録その2】

「ああいう気持ちがなければ、僕はこの世界にいられなかった」

2006年5月6日の千葉ロッテマリーンズ戦で、マリンスタジアム名物の強風に煽られたファウルフライを追った平野は、1塁側フェンスに激しく衝突し、シーズンを棒に振る大ケガを負いました。しかし平野はそのプレーを悔いてはおらず、むしろそんな食らいつく気持ちこそが、プロとしての自分を支えるものだとしています。

フェンスにぶつかった後は、搬送される救急車の中で、救急隊員の声がやけに遠く、これまでの人生が走馬灯のように頭を巡り「これ、やべーなって」思ったそうです。そんな危険な状態から復帰した後も、恐怖心はなかったと言います。

 

「怖さより感謝の気持ちの方が強かった。自分の中では一度死んだと思っている。支えてくれている人たちに、いいプレーを絶対見せるという気持ちの方が強かった」

事実、平野は復帰後も、フェンスや交錯プレイを恐れることなく、思い切ったプレイをし続けました。イベントでは子ども相手でも手は抜かずにダッシュを見せたり、小学校訪問ではバック宙を披露したりと、どんな時も全力でした。

その打撃スタイルはファーストストライクから積極的に打ちにいくため、四球が少なく、打率のわりに出塁率が低いと指摘されることもありましたが、待ちの姿勢ではなく積極性こそが、平野の武器であり、持ち味でもあり、それを失っていればレギュラーも危うかったのではないでしょうか。

 

【名言語録その3】

「頑張ってくれた体をそろそろ許してあげようかなと思った」

引退会見の際に平野が話した言葉です。「何度ダメだ、何度辞めたいと思ったかわからない」という現役生活だったそうですが、悔いもやり残したこともないと断言しています。

 

「常に200%、300%、1000%やってきたんで」

小さな体で常に全力以上を振り絞ってきたからこそ、そう言えるのだろうと思います。引退後の生活は「最高ですね。朝が違う。めちゃめちゃ楽です。痛いところもないですし」と話しているあたりに、プロの過酷さが伝わってきます。

 

「ライバルは誰かと聞かれると、自分ですと答えてきたので。全力プレーができなくなったら辞めると言ってきましたし」

そこにはやり切った男の清々しさが感じられます。

現在の夢は「オリックスと阪神の日本シリーズ」だそうですが、後輩たちが平野のような全力プレーでその日を実現して欲しいと思います。

 

名言からの学び

・アジャストし、更に進化することが、成長である。

・武器は失えば負けである。

・いつもライバルは自分自身である。

 

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