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江川卓の凄さがわかる名言・語録集!天才怪物投手の伝説エピソードから人生哲学まで


元号が平成から令和へと変り、令和時代に活躍するであろう野球界のスター候補たちが甲子園で躍動する姿がまぶしく感じられます。前元号である平成に「怪物」と呼ばれたのは松坂大輔ですが、その前の昭和の時代に「怪物」と言われた投手といえば江川卓です。

そのホップするような快速球と急激に落ちる鋭いカーブで、高校時代には完全試合2回、ノーヒットノーラン9回、選抜大会での一大会60奪三振、大学時代は法政大学4連覇のエースとして通算17完封など、まさに「怪物」と呼ばれるのにふさわしい記録を打ち立てたものの、プロ入りの際、いわゆる「空白の一日」事件で悪役となり、現在に至るまでそのイメージは完全に払拭できていません。

プロ入り後も1981年には最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振、完投数1位、完封数1位という五冠を記録し、1984年のオールスター戦では8人連続奪三振に打ち取るといった記録や記憶に残る投手として怪物ぶりを発揮しました。

今回は昭和の怪物、江川卓の凄さがわかる名言や語録を紐解き、天才怪物投手の伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。

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江川卓について

まずは江川卓の経歴を追ってみます。

1955年5月25日生まれ、福島県いわき市出身。すでに中学時代から野球選手として頭角を現し、いくつかの高校から誘いを受けたが、進学も視野に入れ、作新高校に入学。

高校時代は公式戦で完全試合2回、ノーヒットノーラン9回、完封20回、一試合平均被安打2.6など、すさまじい記録を残し、練習試合を含めれば145イニング連続無失点という途方もない記録を作りました

甲子園でも高校3年の選抜大会でベスト4で姿を消したのにも関わらず、現在も選抜記録となる一大会で60三振を奪います。

夏の大会では2回戦0-0のスコアのまま延長12回、169球目が四球となり、押し出しで敗戦。しかしその脅威の力はプロチームだけでなく、全国民の注目の的となりました。

1973年のドラフトで阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)から1位指名を受けるも、大学進学を選び、法政大学へ入学。エースとして歴代2位の通算47勝をあげ、リーグ戦4連覇にも貢献。1977年のドラフトでクラウンライターライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)に1位指名されたものの、在京セリーグ球団ではないので拒否。一年間アメリカへの留学を決意します。

翌1978年ドラフト前日に、突然、読売ジャイアンツとドラフト外での入団を発表。当時の野球協約の抜け穴を突いたものでしたが、他球団はもちろん世論からもバッシングを受け、1979年に江川をドラフト指名した阪神タイガースとジャイアンツでトレードが成立。

小林繁との交換トレードで江川はジャイアンツに入団しますが、開幕から2ヶ月間は出場自粛を求められました。

入団2年目以降は、ジャイアンツのエースとして活躍。1981年には投手5冠を獲得。快速球とカーブのコンビネーションで怪物の名に恥じない力を見せるが、1987年にプロ生活わずか9年で引退。通算135勝、防御率3.02、MVP1回、最多勝2回、最優秀防御率1回、最多奪三振3回、ベストナイン2回

まさに糸を引くようなという表現が相応しい快速球と大きく曲がるカーブとのコンビネーションという、ほぼ2つの球種のみで一流のプロをなぎ倒した姿は、江川を好む好まざるに関わらず、野球ファンの目をくぎ付けにしました。

引退後は解説者として活躍中です。

 

私が選ぶ、江川卓の凄さがわかる名言・語録

【名言・語録その1】

「そう興奮しないでください」

1979年のドラフト前日、「空白の一日」を使っての入団は、野球ファンだけでなく世論を騒がせ、社会問題にまで発展しました。騒動は江川をドラフト指名したタイガースと、ジャイアンツの小林繁との交換トレードで解決。小林は一躍悲劇のヒーローとなり、翌年22勝をあげます。上記の言葉は小林が犠牲となったことに、自分さえよければいいのかと詰め寄った記者にかけた言葉です。

この言葉を口にした時のふてぶてしい印象も、江川を悪役に仕立てた一因といえます。江川とすればジャイアンツ側から野球協約の盲点であり、契約は可能だと聞かされていた筈で、多少は騒動になるだろうとは想像してはいても、それほどのバッシングを受けるとは考えていなかっただろうと思います。

 

「腕が折れても投げるって、腕が折れたら生活できないでしょ」

そんな冗談も、江川が発すると、不真面目とかダーティーな印象を与えることになってしまいました。

交換トレードの相手となった小林もこのトレードで相当に苦しんでいたようですが、タイガースのエースとして活躍し、2007年には清酒のCMで共演。互いのわだかまりは消えたようでしたが、小林は2010年に57歳の若さで急逝し、江川は混乱を避けるため葬儀に参加せず、献花のみに終わったところに、この問題の根深さを感じます。

ドラフトの持つドラマ性の影の部分が強く表れた事件だったといえますし、ある意味で江川も被害者だったと言えなくもありません。

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【名言・語録その2】

「たぶん記録にも残らないし、記憶にも残りたいと思わないわけです」

ジャイアンツの先輩である王貞治は記録に残り、長嶋茂雄は記憶に残るという話に対する、江川自身の自己評価です。

 

「無理して三振を取りにいっても疲れるだけだっていうのは悟ったね」

高校3年の時に三振にこだわり145イニング無失点記録が途切れたのを振り返って、そう語っていますが、1984年7月24日のオールスター第3戦、全セの2番手として4回から登板。8者連続三振という記録にも記憶にも残るピッチングを見せてくれます。

落合博満にブーマーという3冠王ふたりを擁する全パリーグの強打者たちを、バタバタと三振ににとる姿は強烈な存在感を放っていました。

9人目の打者だった大石大二郎にカーブを投じて内野ゴロになり、記録は途切れましたが、なぜストレートを投げなかったのかと論議の的になってしまうのも、江川らしいといえます。

後に本人は「カーブで一球外して、4球目にストレート勝負」というつもりだったとか、「10連続三振を狙って」大石が三振し、振り逃げしてくれるように捕手がとれないくらい外角へ投げるつもりだったなど、嘘とも本当ともつかないこと語っています。

しかし8人の三振の決め球を見ると半分の4人が、最後はカーブで三振しています。それで江川の快速球が頭にあったパリーグの打者たちが、実はカーブに翻弄されていたのがわかります。あらかじめ計算された攻めだったのでしょう。

本人がどう言おうとも、間違いなくひとつの時代を作り、記録にも記憶にも残る投手だったのは間違いありません

 

【名言・語録その3】

「勝てなくなった時、いつまでもユニフォームにしがみついていてはいけないと思う」

肩の違和感から、わずか現役生活9年で引退した江川ですが、その言葉通りあっさりと引退した印象があります。同時期にジャイアンツで二本柱として活躍した西本聖に比べて根性がないと揶揄されましたが、江川には彼なりのプライドがあったようです。

 

「なんだかんだいっても、僕がやらなければ日本一にはなれないんだからね。そのプライドは人一倍ある」

そう語る裏には、勝てなくなれば終わりだという自負が隠されているように思います。

アマチュア野球の審判員を41年間務めた清水幹裕さんによれば、江川は大学時代、最初は意図的にボールひとつぶん、アウトコースに外れる快速球を投げ込むそうです。審判は当然ボールと判定しますが、江川は怪訝な顔で首を傾げる。審判が少し不安感を覚えたところに、今度はボール半分だけ外れた球を投げてくるので、ついストライクとコールしてしまうと語っています。

当時としては速い150キロを越える球速と、抜群のコントロールを持つ江川だからこそ、可能だったといえる技ですが、それほどの能力と技術を持つ天才だからこそ、自らの力の衰えを許せなかったのかもしれません。そして自ら早めの幕切れを望んだのでしょう。

監督あるいはコーチとして期待する声がありながらも、入団時のダーティーイメージもあり、現場復帰することなく、今に至る江川ですが、いつか再びユニフォーム姿を見たいと願うファンの声が、届くことがあればいいなと思います

 

名言からの学び

・天才はある種のトラブルメーカーでもある。

・人は必ずしも言葉通りの思想を持ち、行動をするとは限らない。

・早熟の天才はその限界を見極めるのも早い。

 

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