高木守道監督の凄さが分かる名言!守備の名手のリーダー論や人生哲学にも迫る!
地域密着の伝統球団として、長年に渡り熱狂的なファンを抱える中日ドラゴンズ。その球団史において幾多の個性的なスタープレーヤーを輩出してきましたが、特に人気を博した選手の1人が高木守道氏です。
ファンの間で“ミスター・ドラゴンズ”と称される人物は3人。初代が西沢道夫氏、2代目が高木氏、そして3代目が立浪和義氏であり、いずれもドラゴンズの真のレジェンドとして認知されています。
伝説的なバックトス、グラブトスに象徴されるように、守備の名手、職人というイメージが強い高木氏ですが、打撃と走塁に関しても卓越した技術を持ち、まさに“走攻守”三拍子そろった名プレーヤーでした。
今回は、そんな高木守道氏が監督時代に残した名言の中から3つを取り上げ、高木氏の凄さに加えて、リーダー論や人生哲学に迫ってみたいと思います。
高木守道氏について
それでは、まず、高木氏の経歴についておさらいします。
1941年(昭和16年)7月17日生まれ、岐阜県岐阜市美浜区出身。県立岐阜商業高校から1960年に中日ドラゴンズに入団しました。
高校進学時はショートを守っていましたが、肩を痛めたことと、当時現役選手だったあの長嶋茂雄氏にコーチングを受けてからの推薦でセカンドに転向。これが名手のスタート地点となりました。
春夏の甲子園で頂点に立つことはできず、高校卒業後は早稲田大学への進学を予定していましたが、地元球団のドラゴンズから声が掛かり、めでたく入団の運びとなりました。
ルーキーイヤーの初出場の試合で初盗塁、そして初打席初本塁打という華々しいデビューを飾った高木氏は、入団4年目の1963年からセカンドのレギュラーに定着。同年にいきなり50盗塁で盗塁王のタイトルを獲得し、スタープレーヤーの仲間入り。その後もチームを牽引する上位打線の中心としてコンスタントな活躍を続けました。
1978年には通算2000安打を達成。これは当時、日本プロ野球史上11人目という稀少なメモリアルであり、ドラゴンズの生え抜き選手としては初となる偉業でした。
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現役生活は21年。打撃の通算成績の中で特筆すべきは236本の本塁打で、小柄ながらパンチ力のある強打者でもあったことがわかります。
手にしたタイトル・表彰は、以下のとおり数え切れません。
〇盗塁王3回(1963年・1965年・1973年)
〇ベストナイン7回(セカンド部門:1963~67年・1974年・1977年)
〇ダイヤモンドクラブ賞3回(セカンド部門:1974年・1977年・1979年)
また日本シリーズ敢闘賞(1974年)と野球殿堂入り(競技者表彰:2006年)も高木氏の球歴に彩りを添えています。
1980年シーズンを最後に現役引退。その後はドラゴンズの一軍作戦守備コーチ、二軍監督、一軍守備コーチ、監督代理、そして野球解説者を経て、1992年から95年、2012年~13年と、二期に渡り監督を務めました。
残念ながらリーグ優勝はなりませんでしたが、計6シーズンのうちの半分はAクラス(2位)。“悲運の指揮官”との印象もありますが、選手としてはもちろん、監督としても球団の功労者の1人といえるでしょう。
特選!私が選ぶ「高木守道監督の三大名言」
「私が悪かった」
第一次政権2年目の93年はリーグ優勝が視野に入る戦いぶりでしたが、勝負所の9月に失速。翌年の94年は逆に終盤戦に猛烈な巻き返しを見せ、長嶋監督が「国民的行事」と称した読売ジャイアンツとの“10・8決戦”まで持ち込む粘り強さを発揮しましだか、いずれも2位に甘んじました。敗因は投手継投のミス。そんな声が2年連続で巷には渦巻きました。
自らの野球理論や信念に確固たる自信を持ち、一度決めたらテコでも動かない性分だった高木監督。が、しかし、この名言は両年にチームを頂点に導けなかった際、コーチや選手の前で発した言葉とされています。
単なる頑固一徹ではなく、自分の非は素直に認めて謝るという一面も併せ持っていた高木監督だけに、ファンの間での批判は強かったものの、チーム内での求心力は強かったのではないでしょうか。
この点は、社会人で同じようなリーダー的立場の人も見習いたいことですね。最終的な責任は全て負うという姿勢を見せれば、下に付く人たちも安心して仕事に取り組めますし、上司への信頼感も揺るぎないものになると思います。
「まさに青天の霹靂で驚いています。悩みはしましたが、やはり野球人間なのでしょう。この年齢になっても、もう1度チャンスを頂けましたので、全力で頑張る覚悟です」
第二次政権がスタートしたときの記者会見での名言です。高木監督は当時70歳。この言葉の前には「落合さんという大監督の後ということもあり」というフレーズがありましたが、複雑な胸中を吐露しながらも、前向きな言葉を口にした髙木監督に好印象を抱いたものです。
一部では、落合監督の後釜を誰も引き受けないがために、OB会長でもある高木氏にお鉢が回ってきた…という見方もありましたが、「やはり野球人間なのでしょう」という言葉に象徴されるように、勝負師としての血が騒ぎ、大役に向けての気持ちが膨らんだと思われます。
現役時代からそうでしたが、高木監督の魅力は、包み隠さず何でもストレートに話してくれること。
時々誤解を招き、世渡り上手かと言われればそうでない部分もあるのかもしれませんが、虚勢を張らずに自分自身の思いの丈を素直に表現することは、私たちも見習いたいものです。
「新人は私のような暴走老人のようにいきませんので、お手柔らかにお願いします」
2012年12月3日に行われた新人選手の入団会見において高木監督が口にした名言…いや、名言というよりも、非常にインパクトのある伝説の発言だったと思います。
ちなみに、「暴走老人」とは、石原慎太郎前東京都知事が使った4文字造語。これには報道陣はもちろん、同席した新人選手の家族も笑いを禁じ得ませんでした。
同年に権藤博投手コーチと衝突。そして翌年には井端弘和選手がカットプレーをしなかったことに立腹してベンチ内で一触即発(ベンチ裏まで井端選手を追いかける場面がテレビにリアルタイムで映し出される)など、確かに「暴走老人」の印象も濃く残った高木監督。
それぞれの真相は明確ではありませんが、やはり前述の“自らの野球理論や信念に確固たる自信を持っていたこと”が、時として心のブレーキに歯止めが利かない原因となっていたのでは?
それでも、今あらためて振り返ってみると、まさに好々爺とした佇まいの高木監督だからこそ、この発言もそれほど嫌みのない響きとして捉えられ、当時のメディアに面白おかしく取り上げられたのだと思います。
もしかしたら、場の空気を読み、全てを計算の上で、とかく堅苦しくなりがちな会見の場を和ませたかったのかもしれません。
楽しめるときは楽しんでしまうという人生哲学。
「暴走老人」という言葉に対して過度に敏感に反応せず、高木監督のユニークな一面が発揮されたと見た方が健康的かもしれませんね。
名言からの学び
・最終的な責任は全て負うという姿勢を見せれば、下に付く人たちも安心して仕事に取り組むことができ、信頼感も得られる。
・虚勢を張らずに自分自身の思いを素直に表現することも見習いたい。
・場の空気を読み、ユニークな発言をする一面も高木監督の魅力の一つ。
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