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【横浜DeNA】歴代監督を成績と一緒に徹底紹介!優勝回数最多は三原脩監督、権藤博監督!

2017/05/31

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横浜DeNAベイスターズは2016年シーズンで2001年の3位以来、久しぶりのAクラス3位に入りました。12球団で一番遅く初めてのクライマックスシリーズに出場しました。ファーストステージで2位の巨人を倒しました。セカンドステージではリーグ優勝した広島に敗れましたが、2012年から横浜DeNAベイスターズとなり、着実にチーム力がついてきている印象があります。

2017年シーズンも前評判も高くセ・リーグの注目チームと言っても良いでしょう!!

そんな横浜の監督ですが、2012年のDeNA球団になった時から4年間中畑監督がチームをまとめてきました。その後は2016年からラミレス監督が引き継いで2年目を迎えています。両監督とも選手時代から明るい雰囲気の選手としてとても人気がありました。チームの雰囲気も低迷していましたが、指揮官を中心に少しずつ明るい雰囲気のチームに変革してきました。

やはり、監督の影響力は大きいと思っているファンの方も多いと思います。今回は横浜の歴代監督とその成績についてお伝えしていきます。

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横浜の歴代監督について

初代監督から順に記載します。
出身チームについてはプロチームのみの記載です。

渡辺大陸監督 (1950年)

生年月日:1901年7月8日
ポジション:投手
最高順位: 5位

1950年初代の大洋ホエールズの監督です。しかし、総監督的な立場で実際の指揮は次年度から監督になった中島治康に任せていたようです。そののち、学習院大学の監督に就任しました。

中島治康監督(1951年)

生年月日:1909年6月28日
ポジション:外野手
出身チーム:読売ジャイアンツ
最高順位: 6位

選手時代は強肩外野手として活躍していました。1938年秋季リーグではプロ野球史上初の三冠王となりました。巨人時代は監督兼任として采配も振るっていました。シーズン途中で成績不振から監督を有馬義一に交代しています。

有馬義一監督(1951年)

最高順位: 6位

1951年中島治康監督からシーズン途中で引き継ぎましたが、成績不振からその年で監督を退任しました。

小西得郎監督(1952年~1953年)

生年月日:1896年7月10日
最高順位: 4位

明治大学時代は8代目キャプテンとして活躍しました。昭和2年からはじまった都市対抗野球大会では審判員として出場し、その後、指導者として大洋ホエールズ、大洋松竹ロビンスで監督を務めました。

永沢武夫監督(1954年)

最高順位:6位

永沢監督は創設以来成績が振るはないことから球団社長でありながら監督をかってでました。しかし、チーム創設以来の最低の勝率.250でシーズンを終え一年きりの采配となりました。

藤井勇監督(1955年)

生年月日:1916年10月20日
ポジション:一塁手、外野手
出身チーム:大阪タイガース・太陽ロビンス・大洋ホエールズ
最高順位: 6位

日本のプロ野球公式戦で初めて本塁打を記録した選手です。1950年の大洋ホエールズの創設時の選手でその年122打点の好成績を残しました。(打点122は1999年のローズ選手に破られるまで横浜の最高球団記録として残っていました。)1955年は選手兼監督として指揮を執りましたが、戦力不足から大きく負け越し監督を一年で退任しています。

迫畑正巳監督(1956年~1958年)

生年月日:1912年
ポジション:捕手
最高順位: 6位

下関商業から明治大学へ進学し捕手として東京六大学で活躍しました。1956年から3年間監督を務めましたが、成績は全て最下位と成績が振るいませんでした。1958年でチームは5年連続の最下位となっています。

森茂雄監督(1959年)

生年月日:1906年3月18日
ポジション:内野手
出身チーム:後楽園イーグルス
最高順位: 6位

1959年大洋ホエールズの監督兼社長に就任しました。この年も最下位に終わりましたが、翌年の初優勝の土台をつくりチーム改革に尽力したと言われています。

三原脩監督(1960年~1967年)

生年月日:1911年11月21日
ポジション:内野手
出身チーム:大日本東京野球倶楽部
最高順位: 1位

日本球界の指導者として有名な三原監督です。独特の選手起用や戦術で「三原魔術」、「魔術師」、「知将」の異名をとりました。横浜球団ができて初の優勝、日本シリーズでも大毎オリオンズを初戦からの4連勝で勝利し日本一にも輝きました。三原監督は7年間指揮を執り最下位もありましたが、優勝1回と2位が2回と好成績を残した監督です。

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別当薫監督(1968年~1972年)

生年月日:1920年8月23日
ポジション:外野手
出身チーム:大阪タイガース・毎日オリオンズ
最高順位: 3位

現役時代は3拍子揃った選手でした。1950年にはトリプルスリーの成績を残したこともあります。パ・リーグの初代MVPを獲得しています。監督としても5年間指揮を執り最下位は1度もなく3位が3回と粘り強い采配を見せてくれました。

青田昇監督(1973年)

生年月日:1924年11月22日
ポジション:外野手
出身チーム:読売ジャイアンツ・阪急ブレーブス・大洋ホエールズ
最高順位: 5位

選手引退後1972年に大洋ホエールズのヘッドコーチを経て1973年から監督に就任しました。1972年のシ―ズン終了後中部オーナーから将来秋山登を監督にしたいので、そのつなぎの監督として要請をされました。青田昇氏は監督の契約金はいらないが、リーグ優勝した際には日本シリーズの球団収入の20%を頂戴したいと申し入れ監督を務めました。結果は一時期は首位争いもしたましたが、チーム内が上手く噛み合わず5位でシーズンを終え、退任しています。

宮崎剛監督(1974年)

生年月日:1918年12月17日
ポジション:内野手
出身チーム:大阪タイガース・宇高レッドソックス・阪急ブレーブス・大洋ホエールズ
最高順位: 5位

選手時代は打撃を売りにした内野手でした。前年の青田監督の後を継ぎましたが、翌年から監督となった秋山登のつなぎの監督として監督をしたようです。

秋山登監督(1975年~1976年)

生年月日:1934年2月3日
ポジション:投手
出身チーム:大洋ホエールズ
最高順位: 5位

選手、指導者として横浜一筋でプロ野球人生を終えた監督です。選手時代は1年目から25勝をあげました。初優勝した1960年は21勝10敗防御率1.75の好成績をおさめリーグ優勝に大きく貢献しました。日本シリーズでも4試合に全て登板し、16回と3分の1を1失点と日本一にも貢献しました。横浜一筋ということでファンも多かった監督ですが、5位、6位と監督としての成績を残すことができず2年で退任しました。

別当薫監督(1977年~1979年)

生年月日:1920年8月23日
ポジション:外野手
出身チーム:大阪タイガース・毎日オリオンズ
最高順位: 2位

別当監督は2回目の監督として3年間指揮を執りました。1度監督をした5年間の最後の3年はAクラス3位を3年連続の成績を残しました。

その後は4年連続で5位、最下位と成績が振るわず、再度別当監督に監督の要請があって再登板です。1年目は最下位でしたが、2年目は4位、3年目の最後の年は2位と期待に応える采配をみせました。

土井淳監督(1980年~1981年)

生年月日:1933年6月10日
ポジション:捕手
出身チーム:大洋ホエールズ
最高順位: 4位

高校時代に秋山登と知り合い大学、プロでの大洋ホエールズで約18年間秋山登とバッテリーを組み続けていました。強肩と高い守備力を評価されていた捕手として選手時代は活躍されています。三原監督からも絶大なる信頼を得ており「グラウンドの指揮官」なんて呼ばれ方も。

その捕手ならではの考えで監督としても期待されましたが、4位、最下位と残念ながら2年間で結果を残すことができませんでした。

関根潤三監督(1982年~1984年)

生年月日:1927年3月15日
ポジション:投手・外野手
出身チーム:近鉄パールス・読売ジャイアンツ
最高順位: 3位

ラジオ放送のニッポン放送の解説でもお馴染みの関根監督です。選手時代は2刀流でした。打者で1000本安打、投手で50勝を記録しています。監督としての成績は3位が最高でしたが、若手を積極的に実践で投入し、人材育成の名手とも言われています。

近藤貞雄監督(1985年~1986年)

生年月日:1925年10月2日
ポジション:投手
出身チーム:西鉄軍・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ
最高順位: 4位

前年まで監督を務めていた関根潤三の人材育成を活かし、横浜大洋の代名詞ともいわれるスーパーカートリオ(高木豊・屋敷要・加藤博一)を結成した監督です。1~3番打者まで俊足打者を揃えて相手チームを翻弄させる嫌な打線を組みました。2年間指揮を執りましたが、2年とも4位で成績を残すことができませんでした。

古葉竹識監督(1987年~1989年)

生年月日:1936年4月22日
ポジション:内野手
出身チーム:広島カープ・南海ホークス
最高順位: 4位

指導者として高い評価を受けていました。1975年には広島の初優勝、その後3度の優勝、日本一にも導いている名将でした。

横浜のフロントも名将として期待していましたが4位、最下位と成績を残すことができませんでした。フロントからもすべてを任せるというようなことを言われていたようですが、明らかに戦力不足を感じでいたようです。

須藤豊監督(1990年~1991年)

生年月日:1937年4月21日
ポジション:内野手
出身チーム:毎日オリオンズ・読売ジャイアンツ
最高順位: 3位

須藤監督はあのハマの大魔神、佐々木投手を抑えに抜擢した監督です。とても熱血な監督で若手選手の指導には定評がありました。監督1年目には7年ぶりのAクラス3位にチームを導いています。

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江尻亮監督(1992年)

生年月日:1943年1月10日
ポジション:外野手
出身チーム:大洋ホエールズ
最高順位: 5位

シーズン途中で須藤監督が休養したため監督を務めました。1998年に2度目の優勝をするためのベースをつくった監督でもあります。積極的に若手選手を起用しました。石井琢朗選手や、盛田投手、佐々木投手のダブルストッパーを誕生させた監督です。翌年から横浜ベイスターズとなったので、横浜大洋ホエールズ最後の監督となりました。

近藤昭仁監督(1993年~1995年)

生年月日:1938年4月1日
ポジション:内野手
出身チーム:大洋ホエールズ
最高順位: 4位

選手時代は大洋一筋の選手で小技な得意な選手だったことから、得意分野の小技を多く使った戦術が目立ちました。バント、スクイズを多く多用し緻密な野球を追及していました。指揮官の成績としては5位、最下位、4位と全てBクラスとなり3年で退任されています。

大矢明彦監督(1996年~1997年)

生年月日:1947年12月20日
ポジション:捕手
出身チーム:ヤクルトアトムズ
最高順位: 2位

大矢監督が2回目の優勝の土台を作ったと言っても過言ではないと思います。1996年の1年目は内野手を大きくコンバートしました。石井琢朗は後に球界を代表する遊撃手として成長しています。1年目の1996年は5位に終わりましたが、1997年は選手も大きく成長し、リーグ2位の好成績を残しました。1997年のシーズン最終戦では選手が自発的に胴上げをするなど、選手からの人望も厚い監督でした。

権藤博監督(1998年~2000年)

生年月日:1938年12月2日
ポジション:投手・内野手
出身チーム:中日ドラゴンズ
最高順位: 優勝

監督1年目にして38年ぶりのリーグ優勝、日本一に輝いた監督です。独特な監督で選手には「監督と呼ぶな」と言って選手と同じ目線でコミュケーションをとっていました。監督でありながら投手交代などや投手に喝をいれに行くときは監督自らマウンドに出向いており、投手出身の監督ならではの采配で話題を呼びました。

攻撃面でも超攻撃的なマシンガン打線と言われた打線が印象的なチームと言えます。

森祇晶監督(2001年~2002年)

生年月日:1937年1月9日
ポジション:捕手
出身チーム:読売ジャイアンツ
最高順位: 3位

選手としても読売ジャイアンツのV9に大きく貢献し、西武ライオンズでは9年間で8回のリーグ優勝した名将監督が横浜でも監督を務めました。前年までの権藤監督とは対照的な監督で捕手ならではの緻密な野球をする監督ですが、あまりにも権藤監督の采配とかけ離れており、首脳陣と選手が上手くいかなかった時代ではないかと言えます。

チームの土台により指揮官が合うか合わないかというのが感じられた監督の1人です。

山下大輔監督(2003年~2004年)

生年月日:1952年3月5日
ポジション:内野手
出身チーム:大洋ホエールズ
最高順位: 6位

選手時代は大洋一筋の生え抜き選手ということで監督としても期待されていましたが、1年目は45勝94敗と勝率.324でドラフト制度導入後の横浜球団史上最低勝率となってしまいました。2年目も成績を残すことができず、2年連続最下位で監督を退任することになりました。

牛島和彦監督(2005年~2006年)

生年月日:1961年4月13日
ポジション:投手
出身チーム:中日ドラゴンズ・ロッテオリオンズ
最高順位: 3位

牛島監督は選手時代エースとして中日、ロッテで活躍していました。そのことから、エースを育てるには時間が必要ということで投球内容にかかわらず先発投手を7回前後まで続投させていました。独自の投手理論を持った監督と言えます。2005年の3位が2016年の3位になるまで最後のAクラスとなりました。

大矢明彦監督(2007年~2009年)

生年月日:1947年12月20日
ポジション:捕手
出身チーム:ヤクルトアトムズ
最高順位: 4位

大矢監督の第2次政権で3年指揮をとりました。1回目の監督の時と同様大きく選手のコンバートや投手の配置転換をしましたが、先発投手陣が弱く2008年、2009年は最下位に沈みました。戦力が低下していたこともあり厳しい第2次政権でした。

尾花高夫監督(2010年~2011年)

生年月日:1957年8月7日
ポジション:捕手
出身チーム:ヤクルトスワローズ
最高順位: 6位

尾花監督は1年目に「アナライジング・ベースボール(分析野球)」のスローガンを掲げました。具体的には投手は四球を減らし、打者は四球を多く選ぶということを指示しましたが、成績は残せず2年連続最下位となり退任しました。

中畑清監督(2012年~2015年)

生年月日:1954年1月6日
ポジション:内野手
出身チーム:読売ジャイアンツ
最高順位: 5位

「絶好調男」中畑監督が誕生しました。2012年から横浜ベイスターズから横浜DeNAベイスターズとなり、今までのイメージを変える監督として期待されました。4年間監督を務め最高順位は5位と振るいませんでしたが、ファンサービスや独特の采配でファンを魅了させてくれた監督の1人です。

アレックス・ラミレス監督(2016年~)

生年月日:1974年10月3日
ポジション:外野手
出身チーム:ヤクルトスワローズ・読売ジャイアンツ・横浜DeNAベイスターズ
最高順位: 3位

選手時代は愛嬌のある選手でとても明るい印象の選手でしたが、監督になり「監督は選手より有名になるべきではない」という考え方があり、選手時代のようなパフォーマンスはしていません。選手を信頼している起用法も、選手にとってはやりやすい環境を作っていると言えるでしょう。その結果、2016年はリーグ3位の成績で初のクライマックスシリーズにも出場しました。横浜の約20年ぶりの優勝はラミレス監督が叶えてくれるかもしれませんね(^^)/

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優勝回数が最も多いのは三原脩監督、権藤博監督!

横浜球団のリーグ優勝の回数は2回です。残念なことにセ・リーグでは一番少ない回数です。5番目の阪神も5回の優勝を果たしています。1960年、1998年が優勝した年ですから38年周期と考えれば後10年以内には一度優勝してくれるかも知れませんね・・・(^^)/

横浜を優勝させたのは三原監督、権藤監督ですが、独特な自論を持っている監督です。そういう意味ではラミレス監督も選手時代とは違い独特な考え方でチームをまとめています。近いうちに横浜の優勝もあることを期待したいところです。

また、横浜球団の凄いところは日本シリーズに出場したら全て日本一になっています。回数は2回ですが・・・(^^)/

しかし、日本シリーズに出場したら必ず日本一になるというのは期待できるデータに違いありません。

 

まとめ

・横浜球団の初優勝は1960年の「魔術師」三原脩監督!!

・2回目の優勝監督は1998年の権藤監督。独特な投手起用方法と采配で選手とのコミュニケーションをはかりチームを1つにして優勝。

・横浜球団は日本シリーズに出場したら全て日本一に・・・(^^)/(2回だけですが・・・)

・3回目の優勝はラミレス監督!?首脳陣と選手の関係のバランスの良さが感じられる2017年。近いうちに横浜DeNAベイスターズの優勝は期待大!!

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