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スタン・ミュージアルの凄さが分かる名言・語録集!愛称がThe Man(男の中の男)の伝説エピソードから努力論まで

世界最古のゴルフトーナメントである全英オープンは「The Open」と呼ばれ、他のオープン大会とは一線を画す格式を持っています。英語ではこのように「The」をつけて、その中でも特別であることを表す場合があります。メジャーリーグでも「The Man(男の中の男)」と呼べばあるレジェンド選手のことです。その人こそスタン・ミュージアルです。

彼がその特別な名で呼ばれるようになったのは、アメリカ人が好むマッチョなタフガイだったからではなく、彼の活躍を恐れる敵地のファンたちによる言葉がきっかけです。ミュージアルはその愛称に負けない男でした。でもマッチョというよりは紳士であり、野球選手としてだけでなく、人としても尊敬される人柄でした。

日米野球で来日し、日本球界を代表する鉄腕稲尾和久やサブマリン杉浦忠からも、本塁打を放ったミュージアル。彼が引退した時点で、17のメジャーリーグ記録、29のナショナルリーグ記録、9つのオールスターゲーム記録を残していました。

今回はThe Man(男の中の男)と呼ばれたメジャーリーグのレジェンド、スタン・ミュージアルの凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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スタン・ミュージアルについて

まずはスタン・ミュージアルの経歴を追ってみます。

本名スタンリー・フランク・ミュージアル。1920年11月21日生まれ。アメリカ合衆国ペンシルベニア州ワシントン郡ドノラ出身。ドノラ高校で投手としてプレー、1938年にセントルイス・カージナルスと契約します。マイナーリーグでは投手として活躍しましたが、1940年にデイトナビーチ・アイランダーズの監督ディッキー・カーは彼の打撃の才能を認め、二刀流として投げない時には外野手に起用しました。1941年には完全に外野手となり、好成績を残して9月にはメジャーリーグに昇格します。12試合で20安打、打率.426の成績を残し、翌1942年から左翼手のポジションを手にしました。

レギュラーになった1942年から、兵役で出場試合のなかった1945年を除いて、1958年まで16年間打率3割以上を記録。1963年まで21年間連続で2桁本塁打を放ちました。1943年には首位打者、最多安打、リーグMVPに輝き、1946年も同じ賞をすべて手にします。1948年は首位打者、打点王を獲得し、本塁打王には1本足らず、3冠王を逃します。1950年から3年連続首位打者、更に1957年にも首位打者となります。1958年に史上8人目の通算3000本安打を達成。1963年のシーズン途中で引退を表明し、彼の背番号6はカージナルスの永久欠番となりました。

メジャーリーグ通算22年間で、3630安打、475本塁打、78盗塁、打率.331。MVP3回、首位打者7回、打点王2回。メジャーリーグ通算3630安打は史上4位、通算塁打6134は史上2位、通算打点1951は史上7位。

引退後は古巣カージナルスの球団副社長などを歴任、1967年のメジャー制覇の際にはGMを務めていました。1969年に野球殿堂入り。2013年1月、92歳で大往生を遂げました。

 

私が選ぶ、スタン・ミュージアルの凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「才能は重要だが、情熱と努力こそが成功の鍵だ」

プロ入り当初は投手だったミュージアル。1940年にはマイナーリーグで18勝をあげるなど有望選手でした。しかし故障もあり、打者に転向し、稀代の選手に成長します。日本でも王貞治など投手から偉大な打者になったケースがあります。しかし、その陰にはさまざまな努力があったのは当然でしょう。

ミュージアルの努力や工夫の跡は、その打撃フォームからもわかります。クラウチング・スタイルと言われるかがみこむような打撃フォームですが、投手から見ると、背中が見えるほど体を捻っています。テッド・ライオンズという投手はそのフォームを「警官が来るかどうか角を曲がってのぞいている子ども」と表現し、作家のトム・ミーニーは「曲がった膝としゃがんだ膝はコイル状のバネのように見えますが、ほとんどのピッチャーは彼をコイル状のガラガラヘビと考えています」と言っています。

ガラガラヘビにはピット器官というものがあり、そこで熱を感知して、正確に獲物をしとめます。ミュージアルの打撃もまた獲物を襲うガラガラヘビのように、通算10972打席でわずか696三振という正確無比なバットコントロールを見せました。

「The Man(男の中の男)」の称号は、1946年に敵地のドジャースファンがミュージアルの打席を迎えるたびに「男が来た」とその打撃を怖れていたことを、新聞のコラムが取り上げ、その後「Stan The Man」として知られるようになったのがきっかけです。更に彼の謙虚で模範的な性格や態度が、まさに「The Man(男の中の男)」にふさわしかったこともあり、彼の代名詞になったのです。

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【名言語録その2】

「私の誇りは打率やホームランなどの数字ではなく、数知れぬ敗北とスランプから、その都度立ち上がったことだ」

野球は記録のスポーツですが、記憶のスポーツでもあります。年間の3分の1以上もの試合数を重ねるプロスポーツは野球以外なく、精神的にも身体的にも過酷です。リカバリーする間もないほど、次々と襲う敗北感やスランプ、故障などを乗り越えたものが一流になる世界です。

ミュージアルもまたその例外ではありません。1947年には虫垂炎と扁桃炎を患いながら1年間戦い、シーズン打率.312を残しています。更に1948年9月22日、左手首を痛めた彼は各打席、ワンスイングと決め、5打数5安打しました。結局バットを振ったのは、各打席ヒットを放った1回ずつ計5回のみでした。

その体力といい、忍耐力といい、精神力といい、「The Man(男の中の男)」ならではのことだと思います。

 

【名言語録その3】

「彼に反論したくはないけど、ジョー・ディマジオほどよかったとは言えない」

彼とは球聖タイ・カッブです。カッブはミュージアルについて「全盛期のジョー・ディマジオよりも優れた選手」と評価しました。ディマジオといえばニューヨーク・ヤンキースの永久欠番である背番号5を背負った名選手であり、あのマリリン・モンローの夫としても有名です。しかし、ミュージアルは謙虚にそれを否定してみせました。

2013年にミュージアルが亡くなった際、メジャーリーグのコミッショナーだったバド・セリグは「彼は米国人の模範であり、カージナルスの心、魂だった」と語っています。2011年にバラク・オバマ大統領からミュージアルに大統領自由勲章が授与されましたが、オバマは彼について「汚れのないアイコン、コミュニティの最愛の柱、あなたは子どもたちに見習ってもらいたい紳士」だと讃えました。このようにミュージアルは選手としてはもちろん、人格者として高く評価されています。

1947年、所属していたカージナルスが、メジャーリーグ初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンへの抗議として、ドジャースとの試合をボイコットしようとしました。しかしミュージアルはこれに強く反対しました。また白人と黒人の同室などあり合えない時代でしたが、彼はハンク・アーロンと同室し、親しく打撃論を交わしたそうです。

更にミュージアルは生まれ育ったドノラの社交クラブに出入りし続け、定期的に募金に使うためのサインボールを贈り、セントルイスに所有していたレストランでは、ドノラの住人ならば無料で食事ができました。マイナーリーグ時代、彼に打者への転向を勧めた監督には、家を一件プレゼントしています。

引退後に、自分のポジションだった左翼にルー・ブロックが入り、カージナルスがワールドシリーズを制覇した時も、チームが強くなった要因について「良い左翼手が入ったからだろ」と微笑んでみせたそうです。

そういった彼の人間力こそ、「The Man(男の中の男)」と呼ばれるにふさわしいものだったのではないでしょうか。

 

 

名言からの学び

・名は体を表す

・リカバーもまた大切な仕事である

・謙虚さが人間力を養う

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