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田中幸雄の凄さが分かる名言・語録集!ミスターファイターズの伝説エピソードから人生哲学まで

2025/06/08

やはりもっともファンに愛されるのはチームを支える生え抜きのスター選手でしょう。1946年にセネターズからスタートし、フライヤーズ、そしてファイターズへと至るおよそ80年の歴史の中で、チーム一筋の生え抜き打者として安打、本塁打、打点の3部門で歴代1位に輝いているのが、田中幸雄です。

ファイターズ史上、チーム一筋の生え抜きで2000安打を達成しているのは田中幸雄ただひとりですし、250本塁打、1000打点に到達しているのも彼ひとりです。ファイターズに在籍して名球会入りを果たしている張本勲や大杉勝男は、後にチームを離れましたし、稲葉篤紀はFAで移籍してきた選手です。田中幸雄はFA宣言はしましたが、同時にチーム残留も宣言し、ファイターズ一筋を通しました。

ファイターズには同時期に田中幸雄というまったくの同姓同名が在籍していました。もうひとりの田中幸雄は投手で、チームメイトは身長の差で投手の方を「オオユキ」、そして打者の方を「コユキ」と呼んでいたそうです。

今回は「コユキ」ことミスターファイターズ田中幸雄の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。

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田中幸雄について

まずは田中幸雄の経歴を追ってみます。

1967年12月14日生まれ、宮崎県都城市出身。小学5年生で軟式野球を始め、中学時代も目立った存在ではなく、一般入試で都城高校に入学します。しかし高校ではその強肩と打力を評価され、1年の秋には遊撃手のレギュラーを獲得。2年生の時には春の選抜大会と夏の選手権大会で甲子園に出場。1985年のドラフト会議で日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)にドラフト3位で指名され、入団します。

ルーキーイヤーから1軍に上がり、プロ初安打を本塁打で飾りました。翌1987年にはチームの若返り策からレギュラー格となり、1988年はクリーンナップで起用されるようになり、ベストナインにも選出されます。この年から4年連続で全試合に出場しますが、1992年に右肩を故障し、わずか1試合の出場にとどまりました。1993年に復活し、ここから10年連続で2桁本塁打を記録。1995年には最多打点、ベストナインを獲得。1997年は史上3人目となる全打順本塁打を放ちました。2000年のシドニーオリンピックにチーム最年長選手として出場。2007年に2000本安打を達成し、シーズン終了後に引退します。

日本プロ野球通算22年間で、2012安打、287本塁打、40盗塁、打率.262。最多打点1回、ベストナイン4回、ゴールデングラブ賞5回。339守備機会連続無失策はパリーグ遊撃手の最高記録。

引退後はファイターズのコーチ、二軍監督などを務め、その後は野球解説者として活躍しています。

 

私が選ぶ、田中幸雄の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「相手をすごいと感じることはあまりなかった。常に自分の技術が足りない、練習しなきゃ、と思うだけでした。それが良かった」

田中が現役をおくった時代、パリーグの投手陣はひと癖もふた癖もある猛者ばかりで、彼が1軍に上がった頃にはすでにレジェンドだった村田兆治、山田久志、東尾修らがまだ現役で、他にも野茂英雄、松坂大輔、伊良部秀輝、大塚晶文、吉井理人ら後のメジャーリーガーたち、工藤公康、渡辺久信、渡辺智男、斉藤和巳、阿波野秀幸、黒木知宏、佐藤義則、赤堀元之など、野球史に名を残す名投手がそろっていました。

しかし田中は「相手をすごいと感じることはあまりなかった」と言います。相手のすごさよりも、むしろ自分の至らなさを感じていたからです。

「早い時期から1軍で使っていただいたことは、自分にとってプラスでした」

「レベルの高いところに放り込まれてやっていると、自分のレベルも上がっていく」と語る田中。2年目にレギュラーを獲得したのは、高田繁監督ら首脳陣が期待をかけ、リーグトップとなる25失策を記録しても使い続けた賜物です。

「やっていくうちにスピードに慣れて、自分のスイングが速くなって、ボールを手元まで引きつけて打てるようになってきた。そうすると変化球の軌道が見えてきて、対応できるようになった」

高いレベルの中で揉まれ、必死に食らいついた結果が自身の礎となったのです。

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【名言語録その2】

「無意識に身体が反応するまで染み込ませないと打てないです」

レギュラーを獲得した頃は、ちょうど中日ドラゴンズからファイターズに移籍してきた大島康徳の打撃フォームを参考にしたという田中。その後、左足を大きく上げてタイミングをとる、いわゆる振り子打法のようなスイングに変化しました。

「僕はボールに対して全力で打ち返したい気持ちが強かったんです」と話す田中。「ホームランを打ちたい気持ちでプロに入りました」と言うだけに「フルスイングで長打を打つ気持ちはずっとありました」と語っています。

「真っ直ぐを待って仮にフォークが来ても軌道が見えれば止まれるので、そこからバチンと打ちたかった。タイミングがずれて軽打になることはありますが、できるだけ強いスイングで打ち返したい思いがありました」

フルスイングの代償として歴代通算51位(2024年シーズン終了時)の本塁打数に対して、歴代23位となる三振数を喫した田中。通算安打2000本達成者では3人目のシーズン打率3割未達成、費やした打席数8413は2013年に谷繫元信が更新するまで、最多打席数でした。全力で長い間、プレーし続けられたのはとにかく練習のおかげでした。

「反復して覚えるしかないですよ。守備もそう。打撃はそれでも3割の世界ですけどもね」

まだ田中の現役時代にはウェートトレーニングがタブー視されていましたが、チームメイトの白井一幸に倣って、いち早く筋力アップをはかるなど、貪欲に挑み続ける姿はまさにミスターファイターズの称号に相応しいものでした。

 

【名言語録その3】

「一生、ファイターズにいたかった」

田中は1997年オフにFA権を行使しましたが、同時にチームへの残留も宣言しました。FA権を行使して残留すると、次の権利取得まで4年間はチームに残るという意思表示であり、ほぼそのチームに骨をうずめるという覚悟を示すものです。多くの場合、チームもそれに合わせて再契約金のような形で報いることになります。

田中は最初から「出ていくつもりはなかった」そうです。入団の時から世話になった大社義規オーナーや「親分」こと大沢啓二元監督をはじめ、「いろいろな人にお世話になって、ファイターズだからここまでできた」という思いが強かったからです。

同じ時期に投手として所属していたもうひとりの田中幸雄は身長190センチを超える大男なので「オオユキ」、そして打者の田中は「コユキ」と呼ばれていましたが、その「オオユキ」にも守備でミスばかりしていたのに、優しい言葉をかけられ、気持ちの面で楽にしてもらったそうです。

野球をはじめた頃は目立たず、打順も下位。高校も野球推薦ではなく一般受験で入り、最初は球拾いだった田中。それが監督に強肩を見込まれて抜擢され、プロでもシーズン25失策をしても我慢して起用してもらえたことに感謝を忘れてはいません。

その精神はプレーにも現れていて、武器である強肩を生かし、普通ならばセカンドがカットに入る右中間の打球でも、田中がカットマンとして入り、ランナーを刺す献身的なプレーが見られました。

2000年のシドニーオリンピックで日本代表に選ばれた際には、年齢が一番上だったものの、3度めのオリンピック出場となる杉浦正則に「遠慮なくまとめ役をやってほしい」と一歩引いた形で関り、リーダーというよりもベテランらしい調整役に徹しました。

そんな謙虚さが「ミスターファイターズ」の魅力でもあるのでしょう。

 

名言からの学び

・高いレベルに身を置くことが学びにつながる

・反復こそが最高の教師である

・謙虚さもリーダーの資質である

 

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