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田中賢介の凄さが分かる名言・語録集!守備の名手で「北海道一の育メン」の伝説エピソードから人生哲学まで

2025/06/08

日本人の姓は多い順に「佐藤」「鈴木」「高橋」「田中」「伊藤」となっています。ではプロ野球選手の姓はどうでしょうか?1位は「山本」、そして「田中」です。「田中」姓の野手ですぐに思い浮かぶのは、ファイターズのふたりの名手です。ひとりはミスターファイターズ田中幸雄。そしてもうひとりはメジャーリーグにも挑戦した田中賢介です。

なかなか日本人内野手が真価を発揮できないメジャーリーグ。田中賢介は二塁手としてゴールデングラブ賞に5度も輝いた名手としてチャレンジし、日本人メジャーリーガー50人目のデビューを果たしましたが、結果は残せず、ファイターズへ出戻る結果となりました。しかしその経験が彼の第二の人生に役立ちます。

田中は自ら理事長として、2022年に札幌ではおよそ70年ぶりとなる私立小学校「田中学園立命館慶祥小学校」を開校。自称「北海道一の育メン」らしく、お世話になった北海道の地で、多くの子どもたちが、さまざまな可能性ある未来に羽ばたけるサポートに乗り出しました。

今回は現在は田中学園の理事長である田中賢介の凄さが分かる名言や語録を紐解き、守備の名手で「北海道一の育メン」の伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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田中賢介について

まずは田中賢介の経歴を追ってみます。

1981年5月20日生まれ、福岡県筑紫野市出身。中学生の時に硬式野球を始め、東福岡高校に進学。2年の時に選抜大会、3年で選抜大会と選手権大会、計3回の甲子園出場を果たします。1999年のドラフト会議で3球団競合の2位指名で日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)に入団しました。

ルーキーイヤーから1軍に昇格し、初安打を記録。2005年までは1軍と2軍を行き来し、経験を重ねました。2006年に開幕1軍入りし、2番セカンドとしてレギュラーを獲得。初の規定打席到達でシーズン3割達成の活躍、チームの日本一に貢献し、ベストナインとゴールデングラブ賞に輝きました。この年から5年連続で20盗塁以上を記録します。2007年から3年連続で全試合に出場し、2012年シーズン後に海外FA権を行使し、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結びます。

2013年、7月にメジャー昇格を果たしましたが、15試合出場で再びマイナーに降格。2014年はテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結んだものの、結果は残せず、シーズン途中で本人の希望により自由契約となりました。

2015年からはファイターズに復帰。早速ベストナインに輝きます。2016年はチームの日本一に貢献。2018年からはサブに回ることが増えながらもチームを支え、2019年シーズン限りで引退しました。

日本プロ野球通算18年間で1499安打、48本塁打、203盗塁、打率.282。ベストナイン6回、ゴールデングラブ賞5回。

メジャーリーグ通算1年間で8安打、2盗塁、打率.267。

引退後は野球解説者、田中学園立命館慶祥小学校の理事長を務めています。

 

私が選ぶ、田中賢介の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「あの選手がいるとなんか勝つんだよな、という選手が理想」

田中は自身のことを「どっちかというと、表だって活躍する選手ではありません」と言います。「いろんなところに気を配りながらチームを勝ちに導く選手」という自己評価です。

プレースタイルは広角に打ち分ける技術だけでなく、バントもうまく、ファウルで粘りながら抜群の選球眼で四球をもぎ取ることも出来て、何とか打ち取れてもダブルプレーを取るのは難しく、塁に出れば盗塁も警戒しなければならない、敵からすれば実に厄介な相手でした。

そのバイプレーヤーぶりを存分に発揮するために「休まない、何があっても試合に出続けることを意識してきた」そうで、「トレーニングを続けて、常にグラウンドに立っていることが大切」だと考えていました。その成果として2006年から2010年まで620試合連続出場を続けました。

2008年からサッカー日本代表監督を務めた岡田武史のサポートも行った白石豊(現福島大学名誉教授)に師事し、現役時代についてはもちろん、老後までを見据えたライフプランを立てることで、より具体的な行動として何が必要かを考えるようになり、自分の役割を理解し、中心選手へと成長しました。

そして田中が入団して以降、チームの5度のリーグ優勝には必ず彼の活躍がありました。

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【名言語録その2】

「監督がやろうとしている野球を理解して、それに対応するのがプロ野球選手の仕事。それができなければ、この世界で長く生き残っていくことはできない」

ファイターズの監督だった栗山英樹は、その著書「覚悟」の中で、田中について「賢介には天性のリーダーシップが備わっている」と書いています。

2軍時代には森本稀哲や実松一成と共に首脳陣から「三バカ」と呼ばれるやんちゃさを見せ、更にはコーチに反抗して、火をつけてしまうことから「着火マン」とも言われた一面を持つ田中。しかしチームメイトには真摯に向き合い、多くの選手たちに慕われていました。

2013年のメジャーリーグ挑戦は、マイナー契約ということもあり、突然、外野手にコンバートされるなど苦しいものでしたが、外野守備についてしっかりと指導を受ける機会さえない環境で、野球のみならず多くのことを学んだ筈です。

そして30歳を過ぎてから異国での学びは、「北海道一の育メン」として、引退後の第二の人生にも大きな影響を与えました。

 

【名言語録その3】

「ファンの皆さんからたくさんの愛をいただたので、これからは僕が恩返しをする番だと思っています」

田中が引退後に「恩返し」として選んだ道は、なんと私立小学校の設立でした。札幌では約70年ぶりとなる「田中学園立命館慶祥小学校」の理事長に就任した田中ですが、「ビジネスとして成立するとは考えていない」と言いきる、まさに「北海道一の育メン」の恩返し事業です。

私立学校の設立は大変で、まず経営を司る学校法人を設立し、それから学校を文部科学省や自治体が決めた設立基準通りかを厳しく審査されます。その際、理事長である田中はもし学校が定員割れをしても予定された教育が行えるよう、学校への多額の寄付行為が求められます。

6学年で300人の小学校ですが、校内には自然豊かな森があり、道内の各自治体とも連係し、オンラインで結んだり、交換留学するプログラムなども考えているそうです。また英語教育にも力を入れたカリキュラムの背景には、2年間アメリカで生活をし、多様な文化に触れることができたことや、その反面で言葉に苦労した経験が生かされました。

「北海道の教育環境に少しでも貢献したい。その中で、子どもたちの選択肢、可能性を拡げることができたら」

そう語る田中は自称ではなく、もはや誰もが認める「北海道一の育メン」です。

 

名言からの学び

・より具体的なプランが道を拓く

・経験と理解が成長の糧となる

・有言実行こそ最高の教育である

 

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