ウォルター・ジョンソンの凄さが分かる名言・語録集!MLB通算417勝の剛腕投手の伝説エピソードから努力論まで
現在の野球界は投手の分業制が当たり前になり、先発が完封ペースで投球している試合でも、途中からリリーフが登板するケースも増えました。そのため完封数は減り、2023年に最も完封が多かった投手でも、日本で3試合、メジャーで2試合という少なさです。ゆえにアンタッチャブルレコードだとされている大記録が通算110完封、記録者はウォルター・ジョンソンです。
サイドスローから抜群の制球力で剛速球を投げ込んだといわれるジョンソン。メジャー歴代2位となる417勝をあげ、歴代9位となる3508三振を奪い、歴代3位となる5914回1/3イニングを投げ、歴代4位となる531完投、そして歴代1位の完封数を残した、まさに歴史に残る剛腕投手です。
ジョンソンが活躍した時代、タイ・カッブなど粗暴さが目立つ選手も多くいましたが、そんな中でジョンソンはとても紳士として知られ、「ジェントル・ジョンソン」とか「ウォルター卿」「白騎士」などと呼ばれるような人物でした。
今回は不滅の110完封を記録したウォルター・ジョンソンの凄さが分かる名言や語録を紐解き、MLB通算417勝の剛腕投手の伝説エピソードから努力論にまで迫ります。
ウォルター・ジョンソンについて
まずはウォルター・ジョンソンの経歴を追ってみます。
本名ウォルター・ペリー・ジョンソン、1887年11月6日生まれ。アメリカ合衆国カンザス州フンボルト出身。14歳の時に一家はカリフォルニア州オレンジ郡に移住し、フラートンユニオン高校に入学します。卒業後はアイダホ州で電話会社に務めながら、アイダホ州リーグで投手として活躍。1907年、ワシントン・セネターズ(現ミネソタ・ツインズ)と契約します。
セネターズは1904年の38勝113敗という成績から分かる通り、弱小チームであり、ジョンソンもルーキーイヤーは5勝にとどまり、その後も2桁勝利はあげるものの負けが先行します。しかし1910年になると真価を発揮し、この年から10年連続で20勝以上の白星をあげます。1913年から1916年までは4年連続最多勝、1912年から1919年まで8年連続最多奪三振など、圧倒的な記録を残します。
1921年には父親と娘を亡くし、引退も考えましたが、ファンやオーナーの切望により、チームのリーグ優勝を目標に思いとどまります。そして1924年、念願のリーグ優勝を遂げ、自身も最多勝と最優秀防御率のタイトルとMVPに輝く活躍を見せました。チームはそのままの勢いでワールドシリーズも制します。1927年に現役を引退。
メジャーリーグ通算21年間で、417勝、防御率2.17。MVP2回、最多勝利6回(歴代2位)、最優秀防御率5回(歴代3位)、最多奪三振12回(歴代1位)。勝利数は歴代2位、奪三振数は歴代9位、投球回数は歴代3位、完投数は歴代4位、完封数は歴代1位。
引退後は1929年からセネターズの監督、クリーブランド・インディアンス(現クリーブランド・ガーディアンズ)の監督に就任。その後は移住したメリーランド州で政治活動にも携わりました。1936年にアメリカ野球殿堂が設立されると、ベーブ・ルース、タイ・カッブ、クリスティ・マシューソン、ホーナス・ワグナーと共に最初の殿堂入りを果たし、「不滅の5人」と呼ばれています。1946年12月10日、脳腫瘍により59歳でこの世を去りました。
私が選ぶ、ウォルター・ジョンソンの凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「見えないものを打つことはできません」
ジョンソンと対戦し、ツーストライクに追い込まれた打者が、「もう結果はわかっている」と次のボールを待たずにベンチに引っ込んだという伝説があります。その選手は「どうせボールが見えない」からと言ったとも伝えられています。
「見えない」と思わせるほどのジョンソンの速球について、同時代に対戦相手でもあったタイ・カッブは「彼の速球はスイカの種ほどの大きさに見え、通り過ぎる時にシューという音を立てた」と語っています。
1917年にコネチカット州の軍需研究所が、彼の速球を毎秒134フィート(約40メートル)と計測しましたが、時速にするとおよそ146キロになります。
古い時代の計測であり、どれだけ正確かはわかりませんが、身長185センチメートルで長い腕を生かしたサイドスローから150キロ近い球速が投じられれば、現在でも相当に威力が感じられるボールだと思います。打者が匙を投げたくなるのもわからなくもありません。
【名言語録その2】
「思い切り投げなければならないと思った時に、思い切り投げる」
この言葉からジョンソンは、相手や状況を見て、常に全力で投げていたわけではないことがわかります。時代的に、あるいは弱小チームに所属していたがゆえに、連投も多かったジョンソン。
1908年には4日間の間に3連続完封という離れ業をやってのけています。最初の試合で完封勝利をあげた後、カンティロン監督がジョンソンに「ウォルター、どうだい調子は?」と尋ね、彼が「悪くないですよ」と答えたところ、続けて先発のマウンドに送り出したそうです。
それをものともせず2試合連続で完封してみせると、日曜日を挟んだ翌日、再び監督がやってきて「どうだい肩の調子は?」と尋ね、ジョンソンが「いつも通り、悪くないですよ」と答えると試合数分前になって彼が先発に決まりました。この試合でジョンソンは利き腕にデッドボールを受けたものの見事に3試合連続で完封しました。
この話しにはオチがついていて、またも監督がジョンソンのもとにやってきて「どうだい調子は?」と尋ねてきましたが、さすがに無言で返事をしなかったそうです。
【名言語録その3】
「失敗は、今度はより賢く、もう一度やり直す機会にすぎません」
家族の不幸などもあり、30代に入ったジョンソンは少年時代を過ごしたカリフォルニアに戻ることを考えていました。しかしジョンソンの活躍もあり、弱小チームから少しは戦えるチームになっていたこともあり、オーナーから「リーグ優勝するまでいてくれ」と懇願され、結局、チームに残ったジョンソン。
悲願は36歳の時に訪れます。ジョンソン自身も23勝をあげ、初優勝に貢献しました。サンフランシスコ・ジャイアンツとのワールドシリーズでは、第1戦で延長12回165球を投げて破れ、第5戦でも敗戦投手となります。3勝3敗の第7戦目、8回同点の場面で「君はうちの最高の選手。君にすべてをかける」と言って、監督はシリーズ2敗のジョンソンをマウンドに送り出します。そして延長12回の劇的なサヨナラで、ワールドシリーズチャンピオンに輝きました。
「成功は最終的なものではなく、失敗は致命的ではありません」
弱小チームであるがゆえに、多くの敗戦という「失敗」を知るジョンソンだからこそ、指揮官は信頼し、彼にすべてを託したのでしょう。
1999年、スポーティングニュースは「野球界の偉大な選手100人」を発表し、4位にジョンソンを選びました。これは投手では最高位です。それは単に勝ち星だけでなく、彼の真摯で不屈な野球人生が評価されたのだと思います。
名言からの学び
・戦う前に決まる勝負もある
・自分を知る者がもっとも強い
・失敗を生かす機会は、それまでの自分の行いによってもたらされる
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