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辻発彦監督の凄さが分かる名言・語録集!天才二塁手の伝説エピソードから指導方法で


戦後、常勝と呼べる強さを見せてくれた球団は、長嶋茂雄と王貞治を擁して、1965年から73年まで日本一を続けるという伝説を残したV9読売ジャイアンツと、1982年から94年までにリーグ2連覇、4連覇、5連覇を達成、13年間で11回のリーグ優勝を果たし、8回の日本一に輝いた西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)の2チームでしょう。そのライオンズの黄金時代に、チームの要として活躍したのが辻発彦です。

この2チームが対決した1987年の日本シリーズは、ジャイアンツ入りを熱望していた清原和博の涙で知られていますが、もうひとつ1塁ランナーだった辻が、秋山幸二のシングルヒットで本塁まで帰って来た走塁は衝撃的でした。クロマティの緩慢な守備力を突いたプレーでしたが、走塁力と守備力が試合を左右しうるものなのだということを、多くの野球ファンが改めて認識した試合でした。

まさにその守備力と走塁力を兼ね備えた名二塁手の辻。二塁手として最多となるゴールデングラブ賞を獲得し、多くのプロ野球関係者が戦後ナンバーワンセカンドにその名を上げるのは、状況に応じたプレーや読みが鋭く、よく野球を知っているとの評価からなのでしょう。

今回はライオンズ黄金時代を支えた天才二塁手で、2017年には監督にも就任した辻発彦の凄さが分かる名言や語録を紐解き、伝説エピソードから指導方法にまで迫ります。

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辻発彦について

まずは辻発彦の経歴を追ってみます。

1958年10月24日生まれ、佐賀県小城市出身。佐賀東高校から日本通運浦和に入社。社会人野球では主軸を打ち、主に三塁手を務めていました。特に目立った実績は残していませんでしたが、西武ライオンズ球団管理部長で実質的GMだった根本陸夫が高く評価し、1983年ドラフト2位で指名され、入団します。

1年目は三塁手での起用が多かったのですが、オフに山崎裕之が引退し、二塁手にコンバートされ、現役時代に守備の名手であった広岡監督が直々に鍛えあげ、レギュラーとして定着します。3年目には初のゴールデングラブ賞を受賞し、パリーグを代表する二塁手へと成長しました。

1987年の日本シリーズでは、今や伝説となった好走塁を見せ、1988年には選手会長となり、90年まで3年連続全試合出場し、名実ともにチームの中心選手となりました。93年には首位打者を獲り、打撃の面でも活躍を見せます。

1995年には故障のため出番が減り、オフには戦力外となりますが、辻を高く評価するヤクルトスワローズ監督の野村克也、千葉ロッテマリーンズのGMでかつての恩師広岡達朗と、二人の名将に声を掛けられ、スワローズに移籍。自己最高の打率.333を記録します。頼りになる経験豊富なベテランとして1999年までプレーし、引退します。

現役通算16年間で1463安打、56本塁打、盗塁242、打率.282。首位打者1回、ベストナイン5回。そしてゴールデングラブ賞8回というのは、二塁手として最多受賞です。

引退後はスワローズのコーチ、横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)のコーチ、2006年WBCコーチ、中日ドラゴンズの二軍監督や一軍コーチを歴任。2017年には古巣ライオンズの監督に就任します。

監督として2019年シーズン終了までの3年間で、247勝を上げ、リーグ優勝を2回遂げていますが、共にCSで福岡ソフトバンクホークスに敗れ、日本シリーズ進出は逃しています。

 

私が選ぶ、辻発彦の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「選手時代は、誕生日はいつも日本シリーズ中だったんだよ」

辻の誕生日である10月24日は、日本シリーズ期間に当たることが多い時期です。ライオンズ在籍中の12年間で9回のリーグ優勝と6回の日本一、スワローズ在籍の4年間でも1回のリーグ優勝と日本一を経験した辻ですから、まさにいつも日本シリーズだったという印象になるでしょう。

選手同士が問題を指摘し合うような大人な集団だった黄金期のライオンズですが、辻は優勝争いの大事なシーズン最終盤の試合で、ゲッツーとなる打球を放ち、流れを悪くしたことが悔しくてロッカールームで泣いたそうです。

当時の監督だった森祇晶が「今日たとえ負けていたとしても、お前に文句を言う奴は誰もいない」と声をかけてくれたというエピソードなのですが、驚くのはすでに主力として活躍していた辻が、ひとつのゲッツーをそれほど悔しがっていたことです。

勝つことが当たり前にならず、常に反省する姿が、一流であり続けた秘訣なのでしょう。その積み重ねが、瞬時の判断を助け、辻が見せた数々の好プレーにつながったのだと思います。

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【名言語録その2】

「もしも自分が監督だったら、どんなチームを作り、どんな野球を目指すだろうか?広岡流か、森流か、野村流か、王流か、それとも落合流か」

辻はライオンズの監督に就任する前、自分の監督像についてあれこれ自問自答したそうです。何しろ辻は選手として広岡達朗、森祇晶、野村克也、コーチとして王貞治(WBC日本代表)、落合博満というプロ野球を代表する名将の下で働いてきました。

5人合わせて監督通算4792勝、リーグ優勝25回、日本一17回という名将たちです。その中で辻は王貞治のような監督を目指すと話しています。

 

「絶好のチャンスでヒットが出れば、身を乗り出して声を上げ、絶体絶命のピンチで投手が相手打者をピシャリと抑えれば、ついガッツポーズが出てしまうだろう。もちろん監督になれば感情を押し殺して冷静に対処する必要があることはわかっているが、私は選手と一緒になって一喜一憂し、選手と一緒になって戦うタイプになるだろうと思っている」

監督就任後の辻の様子を見る限り、それが本当にそうなっているかどうかはわかりません。リーグ二連覇を遂げながら、連続でCS敗退という結果が、少し感情を抑えさせているのかもしれません。

ただルーキーイヤーから源田壮亮を抜擢し、伸び伸びと山川穂高を育て、炭谷銀仁朗が移籍してリードに難があると言われた森友哉を我慢して使い、浅村栄斗が抜けた穴も外崎修汰で見事に補った手腕は、実に見事だと思います。

たとえば源田に関しては「守備の良し悪しを、一概にエラーの数だけで判断してはいません。源田の貢献度はエラー数では測れない」と評価し、山川には1死ランナー1、2塁の場面で三振しても、その場面は「三振するか、頭を越すかなんですよ」と言い、「結果は三振でしたけど、それでいいんですよ。経験だから」と語りました。

選手を育てながら勝つというのは理想形ですが、それを実際に行うのはとても難しいことです。しかし辻はこれまでそれを実現しているように見えます。

 

【名言語録その3】

「やっぱり勝つことが一番上にないといけないんです。経験するだけでいいよっていうわけじゃない。勝つためにどうしなきゃいけないか、というのを思ってくれなきゃ困る」

ライオンズの監督オファーがあった時、まだドラゴンズのコーチだった辻ですが、落合GMは次のヘッドコーチとして辻を考えていたそうです。そのため辻から相談を受けた時、ライオンズがどんなポジションで辻を迎えようとしているのか確かめ、監督だと聞くと「それなら出してやる」と了解したそうです。落合も辻を高く評価していたのがわかります。

 

「グラウンドでは選手に任せる。そして私たち首脳陣は、選手に任せるための準備をする」

そのため選手とは一対一でじっくり話しをし、サインなどについても、主力には事前に了解してもらうよう声をかけているそうです。

辻をよく知る元ライオンズのチームメイト鈴木健は「本来の辻監督は、野球に対して非常に厳しい姿勢を持っています」と語っています。

しかしライオンズの監督になって、練習中でも試合中でも、選手に対し厳しく叱ることはないそうです。おそらく時代の変化により、今の選手には必要以上の厳しさがマイナスになると判断しているのでしょう。

たくさんの名選手に囲まれ、名将たちにもまれてきた経験を持つ辻は「すごい人たちのいいところだけを自分なりに考え、出しているだけ」と言いますが、それらの融合もまたオリジナリティではないか思います。


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名言からの学び

・勝って驕らず。

・育てながら勝つためには学びと経験が必要である。

・いくつかのものを融合させた結果もまたオリジナルである。

 

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