森祇晶監督の凄さが分かる名言・語録集!球界レジェンドの伝説エピソードから指導方法まで
日本プロ野球で、もっとも優勝を経験したのは誰か?その問いに答えるのは案外難しいものがあります。たとえば選手ならば何試合くらい一軍で出場していればいいのかとか、指導者としてならばコーチとしての経験はどうするかなど、いろいろな算出方法が考えられるからです。しかし、もっとも最有力なのは森祇晶(1985年まで昌彦)でしょう。
現役時代には読売ジャイアンツのV9時代を支え、1959年にレギュラー定着後だけでリーグ優勝12回、日本一11回(1試合でも1軍出場した年を含めれば更にリーグ優勝4回、日本一1回)、監督として西武ライオンズを率いリーグ優勝8回、日本一6回、他にコーチとしてライオンズでリーグ優勝3回、日本一2回、ヤクルトスワローズでもリーグ優勝と日本一を経験しています。
戦後、もっとも強かったといえるV9ジャイアンツを選手として支え、黒い霧事件で一度は沈んだライオンズにコーチそして監督として再び黄金期をもたらした森。長くプロ野球界にいながらも優勝から縁遠い人もいる中、選手としても、コーチとしても、監督としても、幾多の美酒を味わいました。
今回は球界随一の優勝経験を誇る森祇晶の凄さが分かる名言や語録を紐解き、球界レジェンドの伝説エピソードから指導方法にまで迫ります。
森祇晶について
まずは森祇晶の経歴を追ってみます。
1937年1月9日、大阪府府中市生まれ、岐阜県岐阜市出身。岐阜高校では夏の選手権大会で甲子園にも出場。東京大学への進学を勧められるほど優秀でしたが、家庭の経済的な事情もあり、1955年に読売ジャイアンツへ入団。
監督だった水原茂に守備力を買われて、1959年よりレギュラー捕手に定着。その頭の良さと優れた観察力を生かし、1961年から68年まで8年連続ベストナインを獲得するなど、V9ジャイアンツを支える捕手として、その偉業に貢献します。
打撃力は規定打席に達した年で、打率.250以上を記録したのが2シーズンしかありませんでしたが、卓越したリードと守備力でレギュラーを維持し続け、捕手は打撃力よりも守備力重視という素地を作ったひとりといえます。
ジャイアンツがV10を逃した1974年シーズンオフ、長嶋茂雄と同じ年に引退。現役通算20年間で、1341安打、81打点、打率.236。ベストナイン8回。
1978年に広岡達朗監督のもと、ヤクルトスワローズのコーチに就任。見事にリーグ優勝と日本一に輝きますが、翌年シーズン途中で退任。1982年から再び広岡達朗指揮下で西武ライオンズのコーチとなり、3年連続でリーグ優勝、2度の日本一になります。
1986年に広岡からライオンズの監督を引き継ぎ、1994年までの9年間で8回リーグ優勝し、6度日本一を獲得し、最後は優勝監督のまま退任。2001年には横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)の監督になりますが、2シーズンで解任。監督通算11年間で785勝、Aクラス10回という驚異的な成績を残しました。
その後はハワイに移住し、野球評論を行っています。
私が選ぶ、森祇晶の凄さがわかる名言・語録
【名言・語録その1】
「自分の立場に不安を持っている間は、その選手は成長する。不安と自信の中で緊張を維持させるのが自分の仕事」
現役時代、森は毎年のように入団してくる有力選手たちとしのぎを削り、レギュラーを保持し続けました。甲子園のスター野口元三、東京六大学のスター大橋穣、東京六大学で戦後二人目の三冠王となった槌田誠の他、佐々木勲、吉田孝司など、ジャイアンツは次から次へと捕手を補強し、競争をあおりました。
それが常勝球団の強さの秘密でもあり、厳しさでもあったと言えます。そんな競争に勝ち抜いた森の言葉だけに重みがあります。
同じく捕手出身の名将である野村克也は森との対談で「キャッチャーは危機感や怖さを知ってなきゃよい捕手にはならん」と話しています。それは森が言う「不安」と同質のものでしょう。また同じ対談で、森は捕手についてこう語っています。
「僕はキャッチャーによく言うんです。味方が打ってるときでも、自分が座ってたら何をするかということを考えて、野球を追っていけと。その積み重ねが捕手の第六感を養っていくと思うんです。ほんの数秒の間に、相手監督の采配、打者の長所短所、投手の調子、それに対する守備位置、すべてのものを指一本出す前に考えていくわけだから、常日頃から鍛えてなければ、そういうものは瞬時に頭をよぎらない」
その考えが基本となり、森は監督としても競争原理を基本に置き、勝ち残りたいのならば選手が自ら考えることを求めました。
【名言・語録その2】
「監督に地味も派手もない」
プロ野球チームは人気商売でもあるので、経営側は指導力や実績よりも、ついつい人気や話題性のある者を監督に迎えてしまいがちです。森は現役時代もスター選手ではなく、監督として実績を残しても人気選手の活躍で、采配ぶりが霞んでしまうことが多くありました。
ライオンズ監督時代には、前任の広岡ならば禁止したであろうゲーム機も、自ら購入してプレイしてみた上で、選手には「面白いけど、ほどほどに」と言うにとどめたそうです。また試合のない月曜日はチーム練習が普通だった当時、森は完全オフとしました。それは疲れている者は休息してもいいし、気分転換に遊びに行ってもいい。練習したい者は練習してもいいという、選手の自主性を重んじたものでした。
森はV9という輝かしい経歴を盾に、昔はこうだった、というような話は一切しなかったそうです。更に遠征先でも食事など選手に対する配慮を忘れず、前任の広岡が厳しく名指しで選手批判をしていたのとは逆に、ミーティングでは名指しで選手を褒めていたそうです。
そのように世代や状況に合った気配りが、黄金時代のライオンズのように派閥が無く、何かあれば選手同士が注意し合うチーム作りを可能にしたのだろうと思います。
森はそんな気配りだけではなく、粘り強さも持っていました。野村との対談で野村は森に「あんたは10点とられても11点目をとられまいとする」と評価しています。
それに森は「勝負なんてどう転がるかわからない」と答えています。そんな気配りと粘り強さが、大きな成果に結びついたのでしょう。
【名言・語録その3】
「現場とフロントの共同作業が上手くいってこそ、チームは強くなります」
ライオンズの黄金期は投手陣も野手陣も、助っ人も移籍選手も見事に調和し、本当に隙のないチームでした。
今でこそ日本でもGMを置くチームが出てきましたが、正直なところ立場が曖昧で、うまく機能しているチームは少ないように感じます。ライオンズでGMのような仕事をしていたのが、球界寝業師の異名をとる根本陸夫です。その根本が「派手な監督」として田淵幸一を望むオーナーに反対し、ライオンズを常勝球団にするため森を押したそうです。
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根本が福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)に去り、ライオンズは勝つのに馴れてしまい、1994年にリーグ5連覇を果たした際には、祝福のお酒もない、食堂での普通の料理があるだけで、球団代表も帰ったと聞き、森は珍しく怒ったそうです。それが優勝しながらも退任する行動に結びついたようです。
人はどんな環境にも馴れてしまいます。常に競い合うことを求めて結果を出してきた森にとって、それは弱者のメンタリティに転じたと感じたのかもしれません。
ベイスターズの監督時代には、選手との確執も噂された森ですが、当時のベイスターズは権藤博監督を擁して優勝した時のイメージから抜けられず、自由主義をはき違えていた上に、フロントが選手起用に介入し、共同作業にはほど遠い状況だったようです。
それは森の手腕うんぬん以前に、チームコンセプトの戦いだと思います。フロントに一貫したコンセプトがあり、監督も選手もそれを理解していなければ、常勝チームは生まれないということでしょう。
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名言からの学び
・競争を勝ち抜くには、常に危機感を持ち、日頃から鍛錬する必要がある。
・世代の違う者に昔を語らず、自らが今に踏み込む。
・チームは関わるすべての人たちを含めてひとつのチームである。
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