吉村禎章の凄さがわかる名言・語録集!天才打者の怪我からの復活劇や人生哲学まで
プロ野球では様々な苦難を乗り越えて復活した選手に贈る「カムバック賞」というものがあります。当時としては珍しい肘にメスを入れて復活した村田兆治、アキレス腱の断裂など度重なる大怪我から復帰した谷沢健一、他にも門田博光、前田智徳、小久保裕紀、2017年には松坂大輔もそれを手にしています。
そしてあの王貞治に「あんなアクシデントがなければ巨人の不動の4番に君臨していたはず」といわせた吉村禎章もまた、感動の復活を遂げた選手です。
1988年、吉村は守備中に味方選手と衝突し、左ひざの靭帯4本中3本を断裂。神経も損傷し、左足首の先を自分では動かせずに障害者認定をされるほどの大怪我を負いました。しかし手術と必死のリハビリで、1989年に復帰。翌1990年には規定打席には達しないものの打率.327、14本塁打でカムバック賞を受賞します。
復帰後、守備や走塁に難は残ったものの、チャンスに強い打者として活躍。もしDHのあるパリーグの選手だったら、更に素晴らしい成績を残したかもしれません。
プロ野球史に残る復活劇を遂げた吉村禎章。今回はその凄さがわかる名言や語録を紐解き、天才打者の怪我からの復活劇や人生哲学にまで迫ってみましょう。
吉村禎章について
まずは吉村禎章の経歴を追ってみます。
1963年4月27生まれ、奈良県御所市出身。PL学園高校では選抜大会にて優勝を果たす原動力に。1982年、読売ジャイアンツにドラフト3位指名を受け入団。
2年目から台頭し、当時ジャイアンツの若手で同じように活躍し始めていた背番号54番の槙原寛己、50番の駒田徳広と共に、55番の吉村は「50番代トリオ」として、期待されました。
後に槙原は背番号17を背負い159勝をあげ、完全試合も達成。駒田は背番号10となり通算2006安打を放つ選手になり、吉村も背番号7と一桁番号で、ジャイアンツの主軸として活躍。
打率3割は当たり前で、本塁打も年間30本を放つなど、槙原や駒田と共に名選手として数々の記録を残すだろうと思われていたが、1988年7月6日、札幌円山球場での対中日ドラゴンズ戦の8回に、飛球を追ってセンターの栄村忠広と激突。大怪我を負いました。
手術と厳しいリハビリの末、1989年9月2日に代打で復帰。翌年にはほぼレギュラーとして活躍し、その奇跡の復活を讃えてカムバック賞を受賞します。後には代打の切り札として、またジャイアンツのキャプテンとしてチームを牽引しました。
現役通算17年で964安打、149本塁打、打率.296、ベストナイン2回。もしも怪我がなければ、あるいはDHのあるパリーグだったら、その記録は大幅に違っていたかもしれません。
引退後は解説者やジャイアンツの打撃コーチ、侍ジャパンのU15代表監督を経て、2017年より古巣ジャイアンツの打撃コーチに復帰しました。
私が選ぶ、吉村禎章の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録集その1】
「栄村さんにはなんの恨みもないですよ。僕はあの怪我をしてよかったと思っているぐらいなんやから」
吉村と衝突した栄村は1982年ドラフト外入団の苦労人で、前年にイースタンリーグで盗塁王となり、この1988年が初めての一軍昇格でした。皮肉にも初出場は吉村の代走で、しかも初盗塁を記録しています。そして7月6日、慣れない地方球場でもあり、事故が起こってしまいます。
栄村は「ボールだけを追いかけてましたので、吉村選手の姿も見ることなく追突した。後から見ると吉村選手が捕球態勢に入ってましたので、あれはプロとして申し訳ないプレー」と振り返っています。
確かに当時の映像を見ると、吉村は速度を緩めて捕球態勢に入り、栄村は速度を緩めず飛び込むようにぶつかっています。その時点でのスコアが9-1だったことも考えれば、無理をする必要はない状況です。栄村の必死さが裏目に出たといえます。
その後、栄村は心無いファンからバッシングをされますが、吉村はむしろ怪我をしたことで人間的に成長できたと栄村をかばいました。入団当時の監督だった藤田元司など関係者も栄村のことを心配しましたが、この事故のこともあってか、結果を残せぬまま栄村は引退します。
吉村はそんな彼を自分を成長させてくれた人だとかばい続けました。
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【名言語録集その2】
「あのケガがなかったら一流選手になっていたかもしれない。しかし、あのケガがなかったら、一流の人間にはなれなかった」
ケガの後の状況について、吉村はこう語っています。
「動かそうとかってことはできなかった。痺れた状態で“野球生命をかけるって気持ちでこれから治療して下さい”って言われた。私はその時点で真っ暗になった」
正直なところ自分のことだけで手一杯だろうし、激突した栄村の判断ミスを考えれば、腹を立てても仕方のないところです。
しかし吉村は栄村を責めませんでした。それどころか栄村はずっと事件のことを気にしていたようですが、吉村からは激励さえあったそうです。
歴史と同様、スポーツにも「IF」はありませんが、点差もあったし、7回で吉村を守備固めのために下げていれば、あるいはうまく激突がかわせていればと、ファンならば想像するだろうと思います。
おそらく吉村は相当な成績を残したに違いありません。しかし大怪我からの復帰は、違う意味で吉村を記憶に残る選手にしたとも言えます。
【名言語録集その3】
「この18人のメンバーが、もう一度同じユニフォームを着て戦いたいと大会後に思うチームであってほしい」
侍ジャパンのU15代表監督として、大会前に選手たちに発した言葉です。
引退後は指導者としても活躍している吉村ですが、大きな苦難を乗り越えてきた選手生活だっただけに、指導者としても選手の苦しみと、それを支えてくれるチームの有り難さを一番感じているだろうと思います。
リハビリを乗り越えた精神力、栄村への思いやり、支えてくれたチームや人々、ファンへの感謝を知っているからこそ、今後の吉村には更なる期待をしたいです。
名言からの学び
・どうあれ結果を恨まない。
・起こった出来事はすべて自分の糧とする。
・苦労と感謝を忘れず、いつかはそれを次世代に還元する。
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