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仰木彬監督の名言・語録集!名将のリーダーシップ論や人生哲学に迫る!


イチローが「師匠」と呼び、野茂英雄、長谷川滋則、吉井理人、田口壮といったそうそうたるメジャーリーガーを育てた名将、仰木彬氏。

近鉄バッファローズとオリックスブルーウェーブ(共に現オリックスバッファローズ)、そしてオリックスバッファローズの初代監督として14年間指揮し、決して強いとはいえなかったチームをAクラス11回、リーグ優勝3回、日本一1回に導きました。

特に阪神淡路大震災後、神戸に本拠地があったブルーウェーブの監督として「がんばろうKOBE」を旗印に優勝したことは、神戸市民だけではなく、全国に感動を与えました。

今回は、昭和の匂いがする酒豪で女好きという無頼でありながら、人望が篤く、多くの選手に慕われた名将、仰木彬氏の名言や語録から、そのリーダーシップ論や人生哲学にも迫ってみましょう。

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仰木彬氏について

まずは仰木彬氏の経歴を追ってみます。

1935年4月29日生まれ、福岡県中間市出身。福岡県県立東筑高校で甲子園に出場。卒業後、西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)に入団

鉄腕稲尾和久や怪童中西太らと共に西鉄黄金期を支え、ベストナイン1回、オールスターにも選出されました。
しかし現役14年間の成績は特に傑出したものではなく、バイプレーヤーとしてチームを支えたといえます。

仰木氏の才能が開花するのは1970年近鉄バッファローズで、三原マジックと呼ばれた知将三原脩監督のもと、コーチになってからのことです。
1988年から近鉄の監督に就任。今も語り継がれる伝説の「10.19」決戦は多くの野球ファンを引き付けました。その巧みな采配ぶりは、恩師の三原氏に倣い、仰木マジックと呼ばれるようになります。

1994年にはオリックスブルーウェーブの監督となり、翌年、阪神淡路大震災で大きく傷ついた神戸に、逆境を乗り越えてリーグ優勝をもたらし、再び伝説を作ります。

最後は2005年、球界再編という荒波の中、近鉄とオリックスの合併によって出来たオリックスバッファローズの初代監督として、肺がんという病を隠しながら新生チームを指揮し、オフに退任した後、野球界にいくつもの名勝負と伝説を残した名将は、監督通算988勝は歴代13位の記録を残し、惜しまれつつ逝去。まだ70歳でした。

 

私が選ぶ、仰木彬監督の凄さがわかる名言・語録集

「君たちは勝ち負けを一切気にしなくていい。勝ち負けは俺の責任だ。その代り、試合に出たらベストを尽くせ。俺は良い結果を出した選手は必ず使う。結果を出さない選手は使わない」

1994年、開幕前日に仰木氏が選手たちに話した言葉です。
実際、仰木氏は打撃フォーム改造に関して前監督とぶつかっていた鈴木一朗選手を、結果は出ているからとレギュラーに抜擢。登録名もイチローに変更させます。結局イチローはその年、日本プロ野球史上初のシーズン200安打を記録し、当時のシーズン安打数記録を更新することになります。

それについて仰木氏は「200安打を打ったのはすごいけど、優勝争いから脱落したあとでも頑張れたのがすごい」と、どんなシチュエーションでも結果を出し続けたことを称賛しています。

結果主義というのは、あまり褒め言葉として使われませんが、遊び人で名をはせた仰木氏は、勝負事の本質は結果にこそある、と知っていたのでしょう。
優れた勝負師は常に状況を読み、分析をしているものです。仰木氏も「選手の咲き時、咲かせ時を判断して、立派な花を咲かせてやるのが監督の仕事」という言葉通り、それぞれの選手を分析し、活躍時を察知していたのでしょう。

 

「止まって我慢するよりも動いて自分の道を開いていけ」

仰木氏がイチローに言い続けた言葉です。
また「その場に止まるな。やらずに後悔するなら、やってみて後悔したほうが気持ちは燃焼する」とも言っています。

かつて西鉄時代に仰木氏とチームメイトだった豊田泰光氏が紹介しているエピソードに、1980年の近鉄と広島カープの日本シリーズ第3戦の話があります。
悲運の名将西本幸雄監督のもと、コーチを務めていた仰木氏は、5回まで2安打1失点に抑えていた先発投手のところで代打を送ろうとした西本監督に向って、三塁コーチゃーズボックスから駆け寄り「点が入らんかったらどうするんですか」とスタンドにいた豊田氏に聞こえる大声で怒鳴ったそうです。

おそらく仰木氏は、パリーグの野球しかしらない西本氏が、セリーグの監督がするような采配をしようとしたのに違和感を覚えて待ったをかけたのでしょう。
勝負師である仰木氏は、西本氏の勝負弱さを、感じとっていたのかもしれません。
まさに後悔しないように、立ち止まらない仰木氏の性格が現れたエピソードです。

仰木氏らしい言葉として「仕事でも、女性を口説くのも、自分の特徴を最大限に生かせ」というのがあります。パリーグはパリーグらしく戦う。それがかつてはセリーグにコンプレックスを持っていたパリーグが、近年の交流戦で圧倒的に強い理由のひとつであるように思います。

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「優勝争いの中では、個人の記録以上に必要なものがある。個を捨てられるのは優勝の時なんだよ。それを知るには、勝つしかないんだ」

勝負事では負けて学ぶことも数多くありますが、勝ってしかわからないこともあります。
1996年のジャイアンツとの日本シリーズ第5戦、4回表、仰木氏はきわどいフライがヒットと判定され、抗議のため席を立ち、一時は選手全員を引きあげさせる騒動となりました。

しかしこの抗議の裏で、仰木氏はコーチに「10分間抗議してくるから、その10分でブルペンを作れ」と指示していたそうです。

日本一に王手をかけていた試合でもあり、1989年の近鉄時代に日本シリーズで同じジャイアンツ相手に3連勝後に4連敗をした苦い経験から、仰木氏はここを勝負どころだと読んだのでしょう。激しい抗議で選手を鼓舞し、神戸のファンを味方につけて、リリーフに勢いにつなげるための策だったのです。

熱さの裏に冷静さがある。勝負師ならではのエピソードです。
ちなみに抗議の後に出て来た投手は、本来先発であり、しかもこの年は未勝利に終わった伊藤隆偉投手。彼はいわゆるシリーズ男となるのですが、その見極めもさすがだと思います。

 

「あの10.19が自分の原点。あれがあるから今の俺がある」

1988年10月19日、伝説に残るダブルヘッダーが、仰木氏率いる近鉄バッファローズとロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)の間で、当時ロッテのフランチャイズだった川崎球場で繰り広げられました。

野球の面白さが濃縮されたこの2試合が、仰木氏は原点だと言います。
最初の試合は近鉄が勝ちますが、第二試合は引き分けとなり、近鉄は優勝を逃します。
この試合ではロッテの有藤監督の9分間に及ぶ執拗な抗議もあり、延長10回で終わらざるを得なくなったことや、判官びいきもあって、近鉄の悲劇はまるでドラマのように見えました。
そして2試合で7時間33分の死闘は、今もプロ野球ファンに語り継がれています。

余波は翌年まで続き、10月12日に前年に優勝をさらわれた西武との同じくダブルヘッダーにおいて、近鉄の主砲ブライアント選手が2試合で4本の本塁打を放ち、その勢いのまま近鉄は優勝します。

この劇的な戦いが、仰木氏が更に深く野球を愛する原点となったのでしょう。

 

「グラウンドで倒れたら本望だ」

2005年、仰木氏にとっては古巣である近鉄とオリックスが合併した新生オリックスバッファローズの監督として復帰しますが、肺がんを患っており、万全ではない中、それを隠しての就任でした。

この時、吹き荒れた球界再編の嵐は、野球ファンの理解を十分に得てはおらず、選手会も初のストライキを決行するなど、前代未聞の事件になりました。それに仰木氏が危機感を抱いたのであろうことは想像できます。そうでなければ古巣同士とはいえ、ファンにあまり歓迎されていなかった合併球団の監督に、病をおして就任する筈はありません。

結果として、この年のオリックスバッファローズは終盤までAクラスを争い、リーグを盛り上げましたが、退任後ほどなくして仰木氏は逝去しました。
まさにグラウンドに倒れた、といってよい最期だと思います。

それもまた仰木氏らしいともいえます。

 

名言からの学び

・まず結果を出さなければ次はない。指導者はその結果を出させるためのタイミングを見逃してはならない。

・勝たなければわからないこともある。そのために指導者は常に情熱と冷静さの、両方を持ち合わさなければならない。

・後悔しないように立ち止まらず、自分の道を切り開け。

 

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